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京の茶室



【その4】茶室へのいざない・躙口(にじりぐち)


躙口(にじりぐち) 茶室には、躙口(にじりぐち)と呼ばれる壁面に設けられた客用の小さな出入口があります。大きさは高さが約66cm、幅が約63cmといいますから、心持ち縦長の長方形ということになります。これは、慣れていなければ、女性でも身をかがめて席入りするのに、大変なくらいですから、男性ならばなおさらのことでしょう。それにもまして、今の時代でも日本では、男性中心の社会システムが残っているのに、男子たるもの身をかがめるなどということが、戦国時代の封建社会に受け入れられるということ自体、不思議だとは思われませんか?


躙口(にじりぐち)は、千利休が草庵茶室・待庵(京都・大山崎/妙喜庵に移築・再興)に設けた小さな入り口がはじまりと言われていますが、ここにも、利休特有の精神的、思想的な目的が意図的に表現されているのだそうです。


封建社会での身分の上下関係は絶対的なものでしたが、茶室に入るには誰であろうとも、低く頭を垂れて伏して入らねばなりませんので、茶室の中では、まず自分というものを一度捨て、お互いにひとりの人間として対峙します。茶室は、小宇宙、あるいは母親の胎内であるとよく言われますが、躙口(にじりぐち)から入ったら、立場を捨て、無垢なありのままの姿になれということなんです。それを、何をいわずとも、空間の所作によって教える、それが究極の空間といわれる所以です。


ところで、もしも、今、躙口(にじりぐち)のような出入口が、私達の生活のなかにあったら、それはもうまず、バリアフリー問題からはじまって、様々な問題が噴出し、実用的ではないということから、クレームだらけになるでしょう。ましてや、日常的に使用されないものなんて、論外と言うことになりますよね。最近、よく住宅メーカーさんの宣伝文句として、誰にも優しい使い勝手のよい空間という言葉を耳にしますが、果たして、誰にも優しい空間なんて成立するのでしょうか。人それぞれ、身体的にも精神的にも個性が認められる時代です。みんな同じものがぴったりくるなんてことはありえないんですよね。


設計者であれば、当然、そのことには気がついていて、結局、私達は、間口が広い、段差がないという物理的な寸法で、設計すれば、バリアフリーと呼ばれるので、なんとなくごまかしてしまっている(笑)ことが多いのではないかと思います。


そんなことを考えていた先日、北欧に視察に行きました。はじめての北欧でしたから、スウェーデンをはじめとする有名な福祉国家なので、きっと、どこにも段差がなくて、間口が広くて・・・なんて単純に考えていたんです。ところが、坂道、段差、歩きにくい石畳、全然、いわゆるバリアフリー空間なんて、とくに見当たりません。しかし、よく気をつけてみていると、人と人とのコミュニケーションに、バリアフリーがあったんですね。お互いに譲り合い、助け合い、尊重する精神があれば、どのような空間であろうとも、誰も困ることはないんです。今、日本で言われているバリアフリーというのは、誰の介助もなく自分一人でも困らないように、作られていますが、本来は何か違うんじゃないかなと思います。


話を戻しますが、茶室のなかでは、亭主と客の関係や、隣席の人にすすめあい感謝の念を捧げながら、一服の茶をいただきます。利休は、この人と人とのコミュニケーションの前に、まず、人はみな平等であると、精神的なバリアフリーを、それを儀礼として茶道に盛り込むために、出入口に躙口(にじりぐち)を考案したのではないでしょうか。躙口(にじりぐち)で、いつもは威厳をふりかざす天下人たちが平伏する姿を見て、にやりとする利休の顔が目に浮かぶような気がします。


京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
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