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京の茶室



【その3】茶室へのいざない・露地


茶の湯は、堺や京の裕福な町衆が現在の形式にまで高めたものです。
ところで、前回連載の「京の町家」シリーズのなかで、京の町家の細長い敷地の奥庭に、日常生活とは離れた『市中ノ山居』といわれるような草庵風茶室があったんだということはお話しました。これは、京の町だけでなく、町衆が大変力を持っていた商いの町・堺においても、同じような町衆文化が発達していました。


露地・路地 そんな町家特有の細長い土地の形状から、通りからは露地・路地といわれる茶室に至るまでの細長い道が設けられていました。はじめは通路としての役割しかなかったものが、しだいに様々な変化をつけるために、やがては茶室に向かうまでのアプローチでさえも趣向をこらしはじめ、現在のような庭園のような露地ができあがったんですね。


このような独立した露地をただの通り道としてではなく、心をつけてみるものと考えたのが、千利休だったんです。町衆の気風や暮らしによって完成した茶の湯を秀吉をはじめとする戦国時代の武将に好まれるようになり、茶室はやがえて屋敷の広い敷地内につくられるようになりました。茶室にむかう客人は、まず、外腰掛で心をしずめます。そして、一歩一歩飛び石をつたって、手水で浄めて席入りをします。日常生活から離れ、茶の湯の世界へ入るための庭園、それが露地なんですね。やがて、これらの影響から庭園技術というものが独立して、めざましい発展を遂げるわけです。


これらの茶室の成立を見てもわかるように、草庵茶室というのは、貴人の茶であった書院の茶の影響と、庶民の茶の伝統や気風というのが、入り乱れて今日まで続いていることがわかりますよね。


庶民は、貴人の生活にあこがれて、自分達なりに工夫してまねようとします。それを貴人たちは、ものめずらく思い、自分達の生活に取り入れようとします。そんなくり返しがおこなわれ、都市の成熟と同じように茶の湯という文化が醸成されていったんでしょうね。そんな人間の心理が複雑にからみ合っているような気がします。


はじめは一人のちょっとした遊び心やアイデアであったものが、流行となり、伝統となっていくというのは、今でも同じで、千利休は今風で言えば、敏腕プロデューサーというところでしょうか。それが、なぜ、400年以上もの歴史を持つようになったのかというのは、そこに茶を服すという大変単純な行為のなかに、他者とのコミュニケーションのあり方をとき、人間は平等なのであるという思想があったからなんでしょうね。


茶の湯のすべての動作や言動は、他人をもてなすためにあるように思います。こんなところから庶民であれ、貴人であれ、コミュニケーションツールとして茶の湯が存在して、そのためだけの空間・茶室がつくられたなんていう話を考えてみると、携帯電話をはじめとするモバイルツールで簡単に済んでしまう便利だけれども味気ない、今の時代の人と人とのコミュニケーションのあり方は、なんとなく希薄でさみしいような気がしますね。


京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
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