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京の茶室



【その2】茶室にみる人々の暮らし


私の学生のころは、まだまだ思想的・哲学的な建築空間というのが、かっこいいと思われていた時代で、しかもポストモダンといわれる奇抜な欧米的なデザインの全盛期でしたから、日本建築をテーマに研究するのは、せいぜい、歴史系の学生くらいでした。ところが、なぜか茶室というのは、特別な位置にあって、テーマとして、とても人気があったように記憶しています。


余談ですが、最近の学生の皆さんは、その反対でむしろ日本的なものの方に新しさを見つけだしているようで、この10年の間にいかに日本らしい空間というものがめずらしいものになってしまったのかがよくわかりますよね。


海外においても、茶室の思想や空間に魅入られる人は多く、これには世界共通の感覚が茶室にはあるということなんでしょうね。世界中を探しても、茶室ほどにそれを構成する存在にひとつひとつの理由や約束事がある空間はないんじゃないかと思います。言い換えれば、そういった人の立ち居振る舞いそのものが空間化されたものが茶室なんだともいえるわけなんですね。その究極の空間が、ただ唯一お茶をいただくためだけの空間と言うのがなんとも不思議なんですよね。


茶室 茶というものが日本にもたらされたのは、奈良時代のことで、現在に伝わる抹茶は、中世に禅僧によって伝えられました。茶の湯の作法は、禅僧の村田珠光(むらた・じゅこう)によって形式的に完成したと言われています。この抹茶を室町時代の将軍達がお気に召し、聞き酒ならぬ、茶の産地を言い当てる闘茶と呼ばれる聞き茶会まで流行するくらいだったそうです。その当時は、武家、公家などの貴人の前で茶人が献ずるためのものであったので、書院づくりの格式ある広間で行われていました。やがてはその一方で風雅人として有名な八代将軍・足利義政が、東山殿の東求堂に四畳半の同仁斎を茶の湯の空間として用意したことが知られていますが、それでも書院づくりの厳格な風格はあったようです。そののちに、町人の出身である茶人・武野紹鴎(たけの・じょうおう)の時代になると、民家や草庵風の土壁が用いられるようになり、その弟子の千利休によって「草庵茶室」が完成されたのです。


ここに、茶の湯が現代にまで続くひとつの理由があるんですよね。もしも、町人出身の茶人がいなければ、現在の茶室の形式は生まれずに、上流階級でなければ味わえない特別な趣味に終わってしまっていたでしょう。それを、名器や高価な道具無しでは茶の湯ができなかった風潮を見事に覆したのは、茶というものを前にして、皆平等であるという思想の元に、質素で精神性を重んじた千利休その人でした。


畳の空間が茶室の中心にあります。そもそも畳そのものが、「起きて半畳、寝て一畳」の人間誰にも平等に与えられた基本単位なんですから、今風にいえば、ひとつの階級のバリアフリー空間ということになるんですね。


畳の空間 ところが、やがて基本ルールを守りながらも、いかに今までに見たこともない、めずらしい素材を使い、型破りな発想ができるかというところに、茶室づくりの勝負のポイントがうつってきます。そうなると、一見素朴に見えて、技工にこった高価な素材が競って用いられるようになり、利休の精神からは離れていきます。日常生活から離れられ、かなり余裕のある風狂な人でないと、この勝負には勝てなくなってくるわけです。このあたりは、豊臣秀吉と利休の思想的な相違にもつながってくる話なんですね。  生活や暮らしから離れた茶室という特殊な空間だからこそ、その当時の流行がダイレクトに反映されたのでしょう。


京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
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