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| 【第5回】京町家ともてなしの文化 京都には独特の「もてなしの文化」があります。もてなしといっても、かしこまったお客様に対するものだけではありません。人や物に対する立ち居振る舞いすべてにおいて「持て成し」が成立します。京都の人の物腰のやわらかさは、その点、じつによくできていて、普通に接していても、かなり丁寧に受け取られます。 ところが、自分のまわりはみんな京都の人という場合は、難なく会話が成立しますが、そうじゃない場合は御用心ですよ。いつまでたっても、こちらの心遣いが伝わらなくて、あとでだんだん「なんでやろ?」なんてことに。それは、もちろん、(あくまでも自分なりに)いつも相手を思いやって接しているわけですから、こちらの方も当然気遣ってもらえないと嫌ですよね。でも、こういうのが、悪くとられていて(誤解です!!)「京都人はいけず(いじわる)説」につながっているのかもしれません。私たちも、もう一歩相手を思いやって接するようにしましょう。京都のおもてなしというのは、他人に押しつけるものではなくて、自分自身が豊かに生きるための知恵なのですから。 おもてなしの文化といえば、京都の芸者さん達にお目にかかる度に、同じ女性として、その物腰のやわらかさと美しさには本当に感心させられます。「おおきに」という甘美な声とともに、ふすまがあくと、お座敷は一瞬にして華やいだもてなしの空間になります。こんなときに、町家建築とおもてなしの文化というのは、じつは一体のものであったのだということを再認識させられます。 さて、私は現在、下京区の島原に住んでいるのですが、この島原というのが、島原太夫道中で有名な京都で最古の花街なんです。京都市の案内看板によると、『豊臣秀吉が京都を再興するにあたり二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これがのちに六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)市街地の西の朱雀野に移った。正式には西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動がときあたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。』とあります。ものすごい強引なネーミングに、びっくりしますが、遠く離れた九州の島原の乱が、京都においても大事件だったことがうかがえます。 最近、島原大門も修繕を終えました。揚屋「角屋」は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されていて、「輪違屋」は太夫さんの置屋として現在も営業されています。誤解されていることが多いようなのですが、揚屋は俗にいう遊廓ではなく、今でいう料亭の役割を果たしていて、歌舞伎、詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧では島原俳壇が形成される程、当時の芸術文化の発信拠点として賑わっていたそうです。その後、市中心部から遠いという立地条件を理由に、祇園の方に遊宴の中心は移りました。それでも、このあたりに残る町家には、今でも独特の風情ある佇まいが残されています。
このような「もてなしの空間」というのは、富裕な町衆の町家に同じように見られます。京町家=純和風のように思われる方は、現在市内に残されている規模の大きな町家のほとんどに、豪華な当代切っての最高水準のもてなしの空間(洋風の応接間)があることに驚かれます。京町家の空間構成にも、まず、もてなしの場を最高水準に考えるという文化が息づいていたのです。それはもちろん礼儀として相手を思いやりつつ、自分を見世(みせ)る独特の京都の文化ともいえるでしょう。 京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう
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