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第2回 近藤・土方VS清河・芹沢・伊東(2)
天保5年(1834)~慶応4年(1868)
武州多摩郡上石原村の富農に生まれ、幕府直轄地の天領である多摩地方は、佐幕意識の強い土地柄であり、15歳で天然理心流の近藤周助に入門した彼は、26歳で天然理心流4代目をつぎ、近藤勇と名乗る。
天然理心流は江戸の華やかな剣法と比べて実戦重視の地味な流派であったが、近藤の親分肌と気配りから多くの浪人達の食客が集まっていた。山南敬助、原田佐之助、藤堂平助、沖田総司などで、他に土方歳三、永倉新八、井上源三郎らも近藤を盟主として暗に認めていた。彼らはこの後も共に修羅場をくぐり、近藤を支えていく。
武士として生きたい、幕臣となりたいと焦燥する彼らを時代は誘う。天誅(テロリズム)が吹き荒れる京都において、将軍警護に浪士を募集しているという。しかも尽忠報国心があり、健康者であれば、身分は不問で将来は武士にも取り立てられることもあるという。
こうして、仕掛人の清河八郎等と共に上京した浪士組であるが、清河から急に東下すると言い渡される。しかし、近藤たち17人は京都へ留まることを決意、京都守護職の松平容保に京都の治安維持のため残留を嘆願して会津藩預りとなり壬生浪士組が誕生する。
しかし、予算の裏づけもなく、実力も見せられず貧窮する浪士組は大坂や京の豪商から強引な借用などをはたらき、守護職の知るところとなり、給金が認められようになった。また、傍若無人に振舞う芹沢一派を粛清して、文久3年9月ころから近藤局長体制を確立、新撰組の隊名を名乗り組織が確立していく。
翌年の元治元年(1864)6月5日池田屋騒動では、局長の近藤自らが死番(しにばん)を務める。先代から変わらぬ禄を食んでいた当時の武士には、できない行為であり、守護職及び町民には大いに信頼されたであろう。その時、近藤勇31歳。
その後、新撰組は大きく発展し、近藤は局長として対外へ、土方は新撰組内部の充実に、実に名コンビぶりを発揮する。しかし、慶応2年(1866)に入ると薩長同盟成立、孝明天皇崩御と、京都のもう一面で時代は大きく流れを変えていく。
翌慶応3年12月18日、御陵衛士残党の狙撃に会い重傷を受けた近藤は、鳥羽伏見の戦いに参加することなく東下、抗戦派として甲陽鎮撫隊を従えて故郷を通過して甲州に向かうが、あえなく敗退する。最後は下総流山で拘束され、板橋で打ち首、京都三条河原へ晒される。
幕末時代に多くの犠牲を出した長州藩をはじめとする各藩は、幕府側に報復処置と思われる所業を行う。会津藩への処置などは代表的であるが、近藤勇の斬首もそうであろう。一時のヒステリックな報復処置は135年後の今日もなお関東各地にまで西軍への怨念が残ることをわれわれも肝に命じたい。
武蔵国多摩郡桑田村石田に豪農の子として生れる。天領で江戸西側防御の地との誇りがあり、無頼漢の跋扈する土地柄、農家といえども自衛上剣術修行が盛んに行われていた。土方等もそんな環境の中で育っていた。
しかし、浪士組に加わり上京する29歳までの土方は、泣かず飛ばずで、奉公先を女性問題や自尊心のためかやめた後、家業の石田散薬の行商を続けていた。将来武士となる夢を抱いて天然理心流の剣術に励んだのもこの頃であった。
上京後、土方が台頭してくるのは、文久3年の芹沢一派の粛清後、新撰組を再構築したころだろう。彼の目的は終始一貫しており、
新撰組の強化、治安維持、武士への矜持といったものがバックボーンにある。
土方は、日本一危険で勇敢な職務をこなす新撰組隊士の補強、選別、局中法度を駆使した組織の引き締めのためには、手段を選ばず盟友の近藤勇にも秘密裏に粛清を行った形跡もある。芹沢鴨暗殺、山南敬助切腹、油小路事件、鳥羽伏見の戦いと鬼の副長土方歳三が、凄みを増していくのは翌年元治元年禁門の変以降、新撰組の最盛期と重なる。
しかし、鳥羽伏見の敗戦で京を離れ、甲陽鎮撫隊での完敗、近藤はじめ同士との決別、関東、東北各地での敗戦から函館へ辿り着く。鬼の新撰組副長も函館の蝦夷共和国では、陸軍奉行並函館市中取締役兼海陸軍裁判局頭取となり、京都時代とは異なる環境の中で、部下への接し方も近代戦への対処も大きく変わ
り成長を遂げるが、彼の目標とするところは京都時代となんら変わっていない。目的達成のため、組織を合理的に、効率的に運用する最善の方法を目指すのである。
彼の写真からは、終焉の地を求めた端正な面魂が、今でも彼の人気を支えているのであろう。
土方は、豊玉という俳号を持つ風流人でもあった。決して上手なわけではないが、「志(し)れば迷い 志(し)らねば迷わぬ 恋の道」と無季俳句を読む彼は、素直で感受的な一面を持っていたのかも知れない。
天保6年(1833)~明治2年(1869)
京都史跡ガイドボランティア協会提供
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