TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 新撰組と京都  > 第4回 池田屋事変を実証する(2)池田屋への道(2)


  1. 幕末京都の治安と新撰組の諜報網   6. 桂小五郎と池田屋
           
  2. 古高は自白したか?   7. 池田屋事変の顛末
           
  3. 祇園会所へ集合   閑話休題「幕末頃の祇園町」
           
  4. 会津や所司代の出動遅れの理由    
         
  5. 祇園会所から池田屋への道を歩く    



 前回、古高俊太郎の自白の可能性について述べましたが、古高の自白が事実であれば近藤以下土方隊も含めて全員で池田屋へ直接切り込んでいたことになるでしょう。
 しかし、史実は少ない隊士を近藤隊と土方隊に分け、近藤隊は出動から切り込みまでに約2時間近くを費やしてしまいました。それよりさらに遅れて土方隊が到着したことを考えますと、新撰組は集会場所が池田屋と特定していなかったことが明らかであると思います。そこで、まず祇園会所と池田屋の距離、池田屋への経路を考えてみました。


古高俊太郎 肖像画




古地図(祇園から池田屋までの様子)
※クリックすると拡大図が見れます。



 これは私説ですが、新撰組の出撃経路を考察するには当時の祇園、木屋町、河原町あたりの様子を考える必要があります。当然、当時の道幅は現在より狭く、現在の3分の1から4分の1程度で四条橋も三条大橋の公儀橋に比較して板橋に近かったようです。近藤隊は、祇園会所を出発して四条通りを西へ、四条橋を渡り、木屋町通り又は河原町通を北上して池田屋へ到着したのではないでしょうか。距離にして約1300メートル、寄り道せず普通に歩いて15分から20分、遅くとも30分もあれば到着できる距離です。
 また、土方隊にしても四条通りから大和大路(縄手通)を北上して池田屋までは1170メートルで15分もあれば到着できます。それに、当時の人々は現代人に比較して健脚であることからも先ほどの時間内で十分に到達できます。もし、予め集会場所が事前に判明していれば、池田屋事件の様相も変わったものになっていたのではないでしょうか。
 例えば、桂小五郎が『五ツ時(現在の午後9時前後)に訪れたが、まだ同志が来ていなかったので・・・』と池田屋を去ったと後述していますがもし新撰組が祇園会所から30分以内に池田屋に到着していれば桂が捕縛されていた可能性があります。また、多くの尊攘派志士の命も助かっていたかもしれません。「もし」ということでいえば後の禁門の変もまたどうなっていたかを想像すると、これ以後の維新史に与えた「池田屋の変」のインパクトは大きなものであったと感じます。




 一方、新撰組の当日の行動から考えてみますと、祇園会所に集合したまでは計画通りで、この後、応援の会津藩などと捜索場所や捕縛の打合せを行う予定があったのではないでしょうか。しかし、午後8時を過ぎても会津藩以下は一向に現れません。このままでは時期を逸すると判断した近藤たちは、打ち合わせも出来ないまま出撃しなければなりませんでした。以上が新撰組が捜索をしながら捕縛を行うことになった真相です。
 それでは何故、新撰組に集合日が判明したのでしょうか。これも想像ですが、自白内容から「町の混乱に乗じて・・・」とあることから祇園祭の祭礼の混雑を狙うと判断したためか、桝喜を捜索したときに会合の文書が発見されたからとも考えられます。また、古高俊太郎自身が捕縛されたことも一因ではなかったでしょうか。様々な要素を考えることで集会があると判断したのでしょう。但し、この時点では集会場所は判明していなかったことが、後の行動で証明されています。



明治頃の池田屋近辺の様子



 古高俊太郎の自白(断片的)から危機感を抱いた新撰組は、すぐさま行動を起こすこととなりました。
 まず、勤王方が行動を起こす前に会合場所を見つけ出して捕縛する必要があります。しかし、武装して隊伍を組んで出動したりすると古高俊太郎捕縛直後であることから勤王方浪士に察知されることにもなり、隊内にも勤王方のスパイが入り込んでいる恐れや、また屯所周辺への目もあることを意識したのだと思います。そのため武具類は事前に荷車に乗せて小者に祇園会所へ運ばせるなど事前準備を進めていたことも事実です。
 6月5日(旧暦)の夕方頃から壬生の屯所を隊士が三々五々連れ立って祇園会所へ向かいました。当時、隊内には病人や逃亡者が多く出て出動隊士は近藤以下30人程しか集まらなかったようです。




幕末頃の三条大橋



 壬生の屯所から祇園会所までは四条通を真直ぐ東へ約3100メートル余り、徒歩で約40分もあれば到着できます。周囲の目を避けることがあったとしても半刻(約一時間)後には全員が揃ったものと考えられます。
 ここで身支度を整え、捜索と捕縛についての打合せを行い会津藩と合同して出動する予定でした。しかし、午後8時を過ぎても会津は現れませんでした。このままでは時期を逸すると判断した近藤は隊を2隊に別け、一隊は近藤が率いる6人(沖田・藤堂・永倉・原田・養子周平・谷万太郎)、もう一隊は土方が率いて出動しました。当然、探索方を走らせ、付近一帯を捜索していたに違いありません。この時点でも浪士の会合場所は判明していなかったと推測されます。近藤隊は鴨川の西側、土方隊は鴨川の東側を重点に宿改めを実施しながら捜索を開始しました。

 

京都史跡ガイドボランティア協会提供

 
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