TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 新撰組と京都  > 第2回 近藤・土方VS清河・芹沢・伊東(1)



新徳禅寺の門
 嘉永6年(1853)ペリー来航以来、江戸では一大剣術ブームが起こり、腕に覚えのある浪士が町に屯していた。そんな中で清河の建白書により京都の治安維持、将軍警護の浪士組募集が行われ、募集の5倍もの若者が尊皇攘夷に燃え、一旗揚げようと上京して来る。
 しかし、仕掛けの張本人清河は、文久3年(1863)2月23日やっと京都へ到着した者を前に壬生の新徳禅寺においてとんでもないことをいう。「諸君らの目的は、将軍の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となるべくこれから江戸へ帰って攘夷を行う。」というもので、状況の理解できない浪士達の多くはその後の清河の策謀による、関白鷹司輔熙からの攘夷の達し、貸与された軍旗の前に彼に従い再度江戸へと下ることになる。
 そんな中、近藤たち天然理心流グループと芹沢鴨の神道無念流グループが、清河の行動に同調せず、当初の目的どおり自らの剣技を頼りに京に残留することとなり、清河らの東下組と袂を分ける。
 彼らの主張は、関白の命令とはいえ将軍から何の沙汰もないのに京を離れることはできないとのものであった。これが後に彼らと京の治安維持に悩む会津守護職と利が結びつく。
   

 
島原大門
   
 
 
角屋
天誅というテロの多発する京に、治安回復のために新設された京都守護職となった会津藩主・松平容保にとって浪士組の京都残留、会津藩のお預りは願ってもない事であった。
 しかし、懐中の乏しい彼らは、京都・大坂の商家から押し借りを働くこともする。やがて押し借りは、会津公の知るところとなり藩から金子の返済がなされて落着するのだが会津藩士の不興を買うこととなる。
 また、芹沢の女癖の悪さや、金子借用を断られた豪商大和屋への焼き討ち事件は、治安を預かる会津藩には許しがたい行為であり、会津藩から質実剛健な近藤グループへ、芹沢一派の粛清の密命が出たのであろう。
 まず近藤たちは、芹沢第一のブレーンの新見錦私的な金子借用の罪で切腹させる。続いて文久3年9月18日に島原の角屋で泥酔した芹沢らを、八木邸で壊滅させる。八木邸と近藤等が待機していた前川邸裏木戸は、道を隔てて近接しており、新撰組ファンは、ここに立てば往時が偲ばれることであろう。
   

伊東 甲子太郎
 元治元年(1864)6月5日池田屋騒動、同7月19日禁門の変が発生し、新撰組は、西本願寺を屯所として一時130人とも、190人ともいわれる一大勢力となる。
 この時期に、旧知の藤堂平助の勧めもあって伊東らのグループが新撰組に入隊する。この年の干支の甲子から、名を伊東甲子太郎と改めての上京からも彼の心意気が伝わるようである。
 時代は、長州藩の処分に関して意見が分かれており、新撰組でも初期からのメンバーで伊東らに極めて近い山南敬介が、脱走を試みて切腹となるなど、佐幕か勤皇かで軋轢を生ずる。
 生来の勤皇家である伊東は、近藤・土方とは思想が異なり、意見の対立の末、慶応3年(1867)3月に先帝の御陵衛士として新撰組から袂を分けることとなる。
 そして、同11月18日の油小路の騒動となるが、詳細は第5回でね。
   
 
伊東を除いた4人は、本来武士の出身ではないが、それぞれが幕末当時を代表する真の武士であろう。
 清河は早くから尊王の志士として全国行脚をして、各地で尊王論者と交流を持ち、庄内の片田舎出身ではあったが、徒手空拳から身を起こし、頭脳明晰で行動力を兼ね備えた幕末初期の巨魁であった。
 清河と同年代の芹沢も、早くから水戸天狗党の一員であって、トラブルは起こしているものの浪士組では一派のリーダーである。
 近藤や伊東もそれぞれグループを形成しており、特に伊東は学問にも優れて、各々相当な器であったと思われる。もし、彼らが寿命を全うしていれば、ひとかどの業績を上げたに違いない。
 しかし、近藤には土方という名参謀がいて、この絶妙のコンビが京都を駆け抜けて強力なインパクトを残して行った。


 それぞれ剣の達人で、清河と伊東は北辰一刀流、芹沢は神道無念流とそれぞれに華麗な江戸三大剣法の使い手である。
 近藤・土方の方は天然理心流と実戦重視の地味な流派ではあった。しかし、近藤等の剣は、道場の立会いでは少々不利かもしれないが、実戦では悪くても相打ちを狙うような凄みがあった。近藤が後日語っているが、「死を覚悟して初めてことを成せる」と。
 それ以前に土方なら、剣の流儀や型にとらわれず最小のリスクで、最大の効果を図るために暗殺を試みるであろうし、芹沢と伊東暗殺も彼の指揮によるものだろう。
 清河も佐々木只三郎に用意周到に暗殺されていることから、剣の達人と正面きって渡り合っては被害甚大というところか。


 当時の状況は、武士を中心として、全員が尊王攘夷であり、水戸学に触れた清河・芹沢・伊東は日本の中心は天皇であり、幕府に代って天皇を中心として外敵を討つという、勤王の志士であった。しかし、芹沢は水戸天狗党を除名になって以降にそういう活動は見られない。
 近藤・土方は武州多摩地方の幕府天領育ちであり、西から江戸へ敵が攻め寄せれば魁となり、武士といわずとも江戸を守ろうというお国柄で、佐幕色が強く彼らは公武合体を目指した。
 近藤は立場上幕府内進歩派との交流もあり、慶応年間には西洋事情を理解しており、自力での外国打ち払い(攘夷)は不可能と気づき、
公武一和を説くが彼の立場(役職)では説得力がなく、次第に幕臣への道を進むことになる。


 彼らはよく女性にもてたことだろう。恋女房お蓮のいる清河、尊王活動にいそしんだ伊東には、遊興の話しは聞かれない。
 しかし、芹沢の女癖は相当なもので、隊士の女への横恋慕、公卿の姉小路公知の妾、菱屋の妾お梅との逸話は豪快を通り過ぎて乱暴である。
 近藤も郷里に妻つねがいるものの島原の美雪太夫、その妹のお孝、三本木の駒野や勤皇芸者祇園の君尾とのエピソードなど興味深い。
 土方も負けていない。故郷に許婚がいたようだが、郷里の知人に「報国の心を忘るる婦人かな」と酔狂な便りを送っている。
 東男の気風の良さ、金離れの良さは当時の遊里の京女にもてない筈がない。ただ、近藤は下戸で酒は駄目だったとか。
   



京都守護職屋敷門
(平安神宮武道センターに移設)
 幕末激動期に活躍した者達は武士以外の者や低身分の武士が圧倒的に多く、幕府側の主戦論者で見ると、大鳥圭介、土方など直参旗本でない者がリーダーとなった。
 また将軍、藩主をはじめとして養子縁組みが大変多い。しかも、将軍、藩主には誰一人として戦乱に際して前線指揮を取るものはなく、徳川300年の間に戦国大名も様変わりしたものである。
 当時の日本は平穏な時代の上に固有の文化が花開き、町衆の多くは平和を謳歌したが、この時代は、また「武士道」という精神的財産を残してくれた。
 新渡戸稲造は、「武士道とは武士階級の高い身分に伴う義務で、仏教と神道という日本文化の土に育てられ、中国の儒教の教えを肥料にしながら花開いた、日本独特の崇高な精神」といっている。
 この武士道が育まれたことが、その後の奇跡的な近代化に邁進する明治時代が展開することと無縁ではない。名誉を重んじ、忠義に殉じた彼等が駆け抜けた時代の下流に、いま私達が生きていることに誇りを持つのは私だけではないでしょう。
   
 
 

京都史跡ガイドボランティア協会提供

 
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