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背景絵 京の町家
【第11回】 京町家と地域コミュニティ

 京都の都市構造が京町家と「通り」を介して成立してるんだということを、何度かお話しましたが、町並みが整ってきた江戸時代になると、より豊かな共同生活のために、コミュニティの最小単位として「お町内」が、発達してきます。これは、回覧板を回したり、祭りや地蔵盆を開いたり、運動会などのリクレーションを行ったりする現在でいう町内会に通ずるものです。
 その昔、京町家では、格子をきれいに拭くことから一日が始まりました。その次は、表に出て、通りを掃き清めて、水を打ちます。おもしろいことに、一軒あたりの担当する範囲が決められていて、自分の家の間口を少し横に出るくらいまで、そして道路の中心線から少しむこうに出たくらい、という具合の習わしがあったんです。他人の生活には関わらないけれども、全く無視するわけではないという、ここにも京都人の気質が表れているんですよね。

 江戸時代、都市生活に関わることは全て町内単位で解決することになっていて、禁令という重い法にふれない以上は、行政は一切関与しないのが原則でした。お触れ書きの回覧から、宗門改め(キリスト教の禁令)、水帳(土地台帳)などが、町内単位でつくられ、「会所」と呼ばれる町内が共有で持っている家に保管されていました。この家は、現在では、「町家(ちょういえ)」、「町席」と呼んでいますが、今で言うコミュニティセンターです。他には、道路や溝の管理、火事の対応、捨て子や行き倒れ人の世話、宗教的・文化的な行事まで、運営機能を持った「町共同体」によって行われました。

 京都の場合、辻から辻の範囲で、通りを挟んだ両側の町並みがひとつの町内をつくるという、一般に両側町と呼ばれる形式を今でもとっています。その両端は必ず四辻(交差点)になるのですが、江戸時代、この辻の周りに、木戸門、番部屋、物入、ちり溜、地蔵堂、髪結床など、それぞれの町内が共有で管理する公共の施設が立ち並んでいました。

 町の防犯機能として町の端にあった木戸門というのは、高さ約3メートルもあって、夜になると全部閉められてしまうために、町内以外の通行ができなくなります。門の横には、番部屋があって、夜間は、町内で雇った番人が番をするというわけです。泥棒や火事などから自衛していたんですね。
 その他、町内の式目(決めごと)では、親ぼくをはかるための年二回の共同食事会「町汁」、不動産や入居者の審査をする「十人組」、近所迷惑の仲裁の仕方なんかが記されています。ただし書きもあって、女子供のけんかに夫が口を出した場合、夫を処罰するという庶民的なものまで、細かく決められているんですよ。どうやら、何か問題が起こる度に、その都度、それ以降、町会の決めごととして審議していたようですね。

 しかし、明治時代になって、行政のあり方や人々の生活も変化し、木戸門や道路にはり出した建築物は取りはらわなくてはならないという通達が出されて、ほとんどがその姿を消してしまいました。
 こうしてみると、平安初期にはじまった京都の都市構造と京町家というのは、江戸時代で都市システムとして完成を迎えているんです。今現在残っている町家にしても、ほとんどが明治・大正以降につくられたもので、当初のスタイルからは、ずいぶんと様変わりしているはずなんです。都市というものは、ある一定の完成度に到達すると、必ず自然に新しい創造にむけて、崩壊へ向かうものです。唯一、そこに住まう人の意志が、保存か新しい創造かを選ぶことができ、また新しい都市の文化がうまれるのだと私は考えています。

 これからの時代にふさわしい京都の住まい方、それが必ずしも回顧主義的な建築物や景観、様式の保存ではないと思います。今年の祇園祭では、賛否両論あったものの、届け出があった場合、山鉾巡行に女性の参加を容認する方針が保存会から出されました。江戸時代初期までは、女性が鉾に乗って巡行している姿が屏風(びょうぶ)絵などに描かれているのに、その後、女性に穢(けが)れがあるという迷信が江戸中期に庶民に広がり排除されたといいます。女人禁制の習わしはほんの数百年のものだったんですよね。
 歴史や伝統というものは、時代に合わせて変わり続けてこそ、次の時代に受け継がれていくものなんです。京都は1200年以上、都として保存されてきたのではなく、変わり続けてきたからこそ価値があるのだと、あらためて感じました。


京都芸術デザイン専門学校専任講師 冨永りょう

(参考)『京の町家考』京都新聞社編

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