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このキャラクターをご存じですか?
深草地域では、子どもたちにも人気のマスコットキャラクター「深草うずらの吉兆くん」です。公式プロフィールによると、「うずらの鳴き声が『ご吉兆(きっちょう)』と聞こえることから、古くから『縁起が良い鳥』として、親しまれていた」とのことです。
この地域では、他にも施設や店の名前に「うずら」が使われているものがあり、深草を代表とする鳥としておなじみです。草地や耕作地に群れで生息する鳥で、かつての深草ではよく目にする鳥だったのでしょう。しかし現在では残念ながら、自然界でこの鳥を見かけることはまずありません。絶滅の危険が増大しているという絶滅危惧Ⅱ種に分類されているそうです。
ウズラは春から夏は北海道や東北地方で過ごし、寒くなると本州南部・四国・九州などに飛来して越冬する渡り鳥です。ウズラの体が茶色なのは、枯れた草地に身を隠すためなのかもしれません。かつて深草には、「鶉(うずら)の床」と呼ばれる場所があったようです。江戸時代後期に書かれた『都名所図会』に次のような記述があります。
『鶉の床』は深草野の叢(くさむら)に巣をくむをいふなり(此野に鶉の床といふ所一所あり、竹の葉山の辺なり、後世和歌によりてなづくるものか)。むかしより鶉の名所にして、声は他境に勝れたりとて、都下の詞客(しかく)仲秋の頃こゝに来りて美声を聞く(惣じて鶉はあれたる野に鳴くものなり。万葉には鶉なくふりにし里とよめり。殊に深草は荒て露ふかきあたりなれば、鶉の床もしめて名のみなるさまなり。深草に鶉を詠合す事は此心にての作例多し)。
千載 夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉なくなり深草の里 俊成
詞客とは和歌や詩をつくる人のこと。仲秋のころ、都の文人が深草に来て荒れ野に鳴くウズラの美しい声を鑑賞したと書いています。「万葉には…」とあるのは、万葉集にある大伴家持の歌「鶉鳴く古りにし郷ゆ思へども 何ぞも妹に逢ふよしもなき」を指しています。そしてよく知られている藤原俊成の和歌が紹介されています。
深草には、この2首の歌碑があります。
大伴家持歌碑(右は「鶉鳴く…」の歌の部分)
大伴家持のものは稲荷山にある伏見神宝(かんだから)神社、藤原俊成は茶碗子の井戸のところにあります。「鶉鳴く」は「古」に掛かる枕詞。ただし、大伴家持の歌に出てくる「古りにし郷」は、一般には奈良の都とされています。
藤原俊成歌碑
藤原俊成「夕されば…」の歌は『伊勢物語』に出てくる深草の場面から想を得て詠まれたものですが、俊成自身が自作の中で最も優れていると言ったと伝えられています。晩年は深草に住んだとされ、当時としては高齢の91歳で没すると、深草の地に葬られました。今は閑静な住宅地の中の見晴らしの良い高台に、墓所があります。
藤原俊成の墓への参道と墓所(右側の五輪塔が俊成の墓)
俊成の子に『小倉百人一首』選者の藤原定家がいます。定家にも深草とウズラを詠んだものがあります。
うづら鳴くゆふべの空をなごりにて 野となりにけり深草の里
深草のさとの夕風かよひきて 伏見のをのにうづら鳴くなり
ひと目さへいとどふかくさ枯れぬとや 冬まつ霜に鶉鳴くらむ
俊成の和歌と定家のこの3首に共通するのは、ウズラ、夕方、そして深草。定家の歌には「伏見の小野」も出てきますが。冬枯れの里の夕暮れに、ウズラの声が聞こえている光景。どうやら深草の草の色は、ウズラの色と同じ枯れ葉色のようです。そこに、いにしえの都人は「もののあはれ」を感じたのかもしれません。
藤原俊成の着想の元となった『伊勢物語』の話には、次のような贈答歌が載っています。
年をへて住みこし里を出でていなば いとど深草野とやなりなむ
野とならば鶉となりて鳴きをらむ かりにだにやは君は来ざらむ
「年をへて…」は『伊勢物語』の主人公のモデルとされる在原業平の作です。この和歌が収録されている『古今和歌集』には「深草の里に住み侍りて、京へまうで来とて、其処なりける人に詠みて贈りける」という詞書があり、業平が深草に住んでいたとしています。
在原業平は仁明(にんみょう)から陽成(ようぜい)まで4代の天皇に仕えた貴族でした。仁明天皇に仕えた歌人には、僧正遍照や文屋康秀がいます。この3人は六歌仙に数えられる和歌の名手であり、深草少将(ふかくさのしょうしょう)のモデルともいわれています。深草少将とは、室町時代に成立した能「四位少将」や「通小町」に登場する架空の人物。六歌仙の紅一点の小野小町に求婚し、100日通ったら結婚してもいいと言われて小町の元に通い続けますが、99日目に死んでしまったという物語です。京阪墨染駅に程近い欣浄寺(ごんじょうじ)が深草少将の屋敷跡とされ、境内に少将と小町の供養塔があります。
欣浄寺にある深草少将と小野小町の供養塔
仁明天皇は深草に埋葬されたため、深草帝(ふかくさのみかど)とも呼ばれました。僧正遍照は仁明天皇の死を悼んで、出家しました。また文屋康秀には、仁明天皇の命日に詠んだとして、次の和歌があります。
草ふかき霞の谷に影かくし 照る日の暮れし今日にやはあらぬ
「草ふかき」は言うまでもなく深草を暗示しています。
仁明天皇陵
仁明天皇の没後、その菩提を弔うため、陵墓に隣接して嘉祥寺(かしょうじ)が建立されました。その後一度は衰退しましたが、江戸時代初期に深草十二帝陵(深草北陵)の隣に再興されました。今は深草聖天とも呼ばれて、御朱印が人気のお寺になっています。
嘉祥寺(深草聖天)
深草十二帝陵には、鎌倉時代半ばから江戸時代初期までの12代の天皇が埋葬されています。その最初が後深草天皇です。文学史上では、この天皇に仕えた女性によって書かれた『とはずがたり』が知られています。後深草という院号は、仁明天皇(深草帝)の後に、深草に葬られたことに由来しています。
深草十二帝陵
鎌倉時代以降も、深草とウズラは和歌の題材になっています。先に挙げた藤原定家も鎌倉時代前半に生きた人です。深草は歌枕(うたまくら)の地として定着し、必ずしも作者が実際に足を運んだわけではなさそうです。
秋を経てあはれも露もふかくさの 里とふものは鶉なりけり (慈円)
うづら鳴くふりにし里のあさぢふに 幾世の秋の露か置きけむ (源実朝)
狩りにこし鶉の床は荒れはてて 冬ふかくさの野辺ぞ淋しき (後鳥羽上皇)
どれも秋から冬の物寂しさが漂います。藤原定家から和歌を学んだ源実朝は、28歳の若さで散った悲劇の人。後鳥羽上皇の和歌は、承久の乱で敗れて隠岐島に流された後の作であるとも。
さて、後深草天皇には、こんなエピソードがあります。「後深草をゴフコウサと読むと、御不孝と聞こえて悪いので、ノチノフコウサと読むことにした」というのです。このことから、かつて「深草」は「ふこうさ」と読まれていたことがわかります。なお、現在は「ごふかくさ」が正式な読み方であることが、宮内庁のサイトに明記されています。
後深草の読みについて記録(『和長卿記』)
現在の深草は、多くの学校や商店街のある、若さと活気に満ちた街になり、夕暮れの荒れ野にウズラの鳴く寂寥感は想像にも難い光景になりました。今の深草の色は、やはり緑が似合うでしょう。この文章が掲載される「E-TOKO深草」のロゴも緑、私が実行委員になっている「深草アーカイブ」のwebサイトも緑が基調になっています。そして日々、深草のまちを緑色の電車が走ります。しかし、ときには、古歌ゆかりの地を巡って、昔の深草に思いを馳せてみるのも一興かと思います。
最後に、俳句を一つ。
近代の俳句では、「鶉」は秋の季語になっています。
深草や鶉の声に日の当る (井上井月)
【参考】
国際日本文化研究センター 和歌データベース
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/menu.html
webサイト「和歌と俳句」
https://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/index.htm
『都名所図会』国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/765987/1/52
東坊城和長『凶事記 : 明応九和長卿記』国立国会図書館デジタルコレクション
| 店舗・施設名 | 五條三位俊成卿 東福寺兆殿司 墓所 |
|---|---|
| 住所 | 京都市伏見区深草願成町36−1 |
Writerたけばしんじ
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Writerたけばしんじ
深草地域の文化「保存・継承・創造」プロジェクト実行委員、伏見チンチン電車の会代表、ステンシル作家、その他得体の知れぬ肩書が複数。
あまり人に気付かれることのない、実生活には無関係な重箱の隅を、穿った視点で追究してみたいと思います。
1987年日本大学文理学部史学科卒業。本業は教育関係。
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