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学芸の都歩き。京都人の私邸をめぐる。

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<岩倉具視幽棲旧宅> 明治維新五傑のひとりが、御所を追われて身を隠した山裾の庵

2018/11/20

秋が深まりつつあります。

拙宅は比叡山の麓。朝夕は肌寒さを感じるようになってきました。

さて、すでに木々は色づいてきていますが、今年のたけなわの紅葉は、どのくらい鮮やかになるのでしょうか? 玄関を出て、修学院離、詩仙堂、武田製薬薬草園、そして曼殊院。これが私のいつもの散歩道。巨刹とは違った離宮、庵の鄙びた姿は、紅葉時期も素晴らしいです。しかし、今年は明治維新から150年。以前から訪ねてみたかったところへ紅葉の下見のつもりで行ってきました。

 

叡山電車は嵐山電車とともに、日本最小の観光電車ではないでしょうか。

運がよければ新型車両の「ひえい」がやってきます。これで洛北の岩倉へ。

実相院が有名ですが、目指したのは、この古刹の近くに佇む「岩倉具視幽棲旧宅」。岩倉駅から20分ほど小川に沿って歩きますが、これがとてもいい風情。京都は市中から遠くないところに、現代的な住宅と同居しながら昔ながらの里があります。

岩倉具視幽棲旧宅は、そんな岩倉の住宅地の一角。明治維新五傑のひとりの住まいとしては小さな感じがしましたが、国指定史跡です。

 

激動の時代を生きた岩倉具視(1825〜1883)。写真/国立国会図書館

 

わたしの青春時代は、まだ昭和でした。ですから、岩倉具視といえば500円札の顔として長く親しんできました。

ギョロとした目に少し神経質な雰囲気を感じてきました。果たしてどんな人物だったのか? 岩倉具視は公家の堀河康親の次男として生まれ、13歳で岩倉家の養子となりました。岩倉家は公家ではありましたが、江戸時代の初めに分家してできた新しい公家で、幕末になっても位階、官職はそれほど高くはありませんでした。

公家社会は家格がものをいい、低い家格の公家は朝廷の会議にも出られなかったのですが、具視は独学で身につけた知識と持ち前の政治感覚で、優れた意見書を次々に出して存在が認められるようになり、ついには頭角をあらわします。

公家で政治に参画できるのは、関白以下の数名で、その制度は変わりません。ただ、幕末、孝明天皇が低い位階の公家でも意見書を出しても良い、と少し風通しをよく制度を変更したのです。

 

「岩倉具視幽棲旧宅」には学芸員の重岡伸泰さんがいらっしゃいましたので、お話を聞いてみました。

 

「明治維新に活躍した人びとの中では、ほかの地方の下級武士たちが有名ですよね。岩倉具視は公家ですので、いわゆる幕末の志士ではありません。もっぱら朝廷と幕府をつなげる調整役として難題の解決、新政策の立案に欠かせない、とても貴重な存在だったのです。そうして、明治政府が樹立されてからは要職に就き、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らと手を携えて政府を支えていきました。それは亡くなるまで続き、岩倉は内閣制度、憲法、議会制度が確立する直前の明治の激動期に日本政府を支えた功労者です。そんな岩倉は、明治維新の5年前、政治抗争の果てに御所を追われてしまい、政治の中心から離れて幽棲したのがこの地。当時の岩倉村で、地名からもわかると思いますが、岩倉の地は岩倉家の父祖の地です」

 

旧邸の主屋の縁側に腰掛け、学芸員の重岡さんに写真を撮っていただきました。

 

所払いのような一件は、孝明天皇の妹であった和宮と徳川将軍家茂とを結婚させる婚姻政策を進めたことに端を発しました。

具視としては、朝廷と幕府の関係強化をはかるために進めたのですが、これが尊王攘夷派の志士たちによって批判され、幕府寄りの要注意人物として御所を追われることになってしまったのです。こうして住まうようになったのが「岩倉具視幽棲旧宅」ですが、ここはもともと地元の大工さんの居宅だったそうです。それを具視が購入し、元からあった附属屋に茅葺の主屋と繋家を増築して暮らし始めたました。とても簡素な住まいですが、密かに暮らす具視を坂本龍馬や中岡慎太郎が訪ねて政治談義をしたといいます。

 

主屋の障子戸の向こうに、広くはありませんが美しい庭があります。

 

 

主屋の縁側でコーヒーがいただけます。200円。

 

学芸員の重岡さんが、さらに教えてくださいました。

 

「岩倉がこの地に暮らしたのは、明治維新までの約3年間にすぎません。そのときに岩倉は幽棲を解かれて京都政界に復帰していったのですが、資料を調べていきますと、どうやら岩倉に暮らしていた間に自分自身が時代遅れになっていると感じ取り、政治的な方針を改めたようなんです。岩倉時代に書き残したものには、どうして自分の意見が通らないのかと悩み抜いた跡形があります」

 

静かな洛北の地は、頭を冷やさせ、熟考の時間だったのでしょうか? 明治になってからの具視の活躍は、「岩倉時代」がなかったらあり得なかったのかもしれません。

 

武田五一が設計した「対岳文庫」の建物。

 

具視が東京へ移り住んでからは、地元の人びとによってこの住宅は丁寧な管理が続けられました。

旧宅は質素ですが、さすがに大工さんが自分の持ち家にだけあって良質な材を使い、今となっては近代和風建築の黎明期を物語る建築として貴重なものだそうです。後に作られた大正ガラスを用いた障子戸、桜、紅葉、群雀などのしつらえが見事です。そんな旧宅の西側には、もうひとつ建物が建っています。鉄筋コンクリート造りで蔵のような小さな建物ですが、西洋建築の立派なものです。

こちらは「対岳文庫」と名付けられた岩倉具視の遺品などを収蔵するために昭和3年に建設された展示収蔵施設です。しかも、この建物の設計は、京都市庁舎本館や京都府立図書館を手がけた、あの武田五一なんです。今に残る昭和初期を代表する西洋建築の大家の設計した建築としては、もっとも小さなものかもしれません。ミニチュアのような可愛らしさを感じてしまいました。

 

 

「対岳文庫」の内部。ここでは重岡さんたちが幕末、明治の公開講座が定期的に開催しています

 

さて、11月下旬になって、12月の初旬までが岩倉の紅葉の見頃でしょうか?

具視が住んだ頃に比べると薄まったのだとは思いますが、岩倉の地は、まだまだ山里の風情を残しています。そんな地に岩倉具視という人物の面影を訪ねましたが、帰り道につくづく考えたことがあります。学芸員の重岡さんがおっしゃった「調整役」ということです。どんな時代でも、武勇伝を提げたリーダーが目立ちます。しかし、組織的な動きの中で、人の心を理解し、意見の違いを調整する役はとても重要です。果たして今の時代に組織の中で、目立たないけれども調整役をかって出ている人はきちんと評価されているのでしょうか?

岩倉具視を通じて150年の記念の年に明治維新を振り返って見えてきたのは、調整役の重要さということでした。

 

岩倉の地は山々が間近です。もうすぐ紅葉がたけなわの時期を迎えます。

スポット情報

店舗名 岩倉具視幽棲旧宅
住所 京都市左京区岩倉上蔵町100
電話番号 075-781-7984
営業時間 開館時間 9時3〜17時(入館受付は16時30分まで) 
休館日 水曜(祝日の場合は開館、次の平日休館)、年末年始
交通 地下鉄烏丸線国際会館駅から京都バス24系統で終点「岩倉実相院」下車南へ3分

阪急電車河原町駅、京阪電車三条駅・出町柳駅から京都バス21・23系統で終点「岩倉実相院」下車南へ3分

叡山電車岩倉駅から北へ約1.4km 徒歩約20分、又は京都バス21・23・24系統「岩倉実相院」下車、南へ徒歩3分
駐車場 約10台の駐車スペースがあります
料金 入館料 大人300円、中高生、高等専門学校生200円 小学生100円
ホームページ https://iwakura-tomomi.jp/

地図

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ライター紹介

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藍野裕之

ライター:藍野裕之

フリーライター。 東京生まれで埼玉育ちながら、学術と芸術の都に憧れ続け、ついに50歳を過ぎて京都に移住。市内の東北、修学院離宮の真下に落ち着き、学芸三昧を目指して日夜そぞろ歩きを繰り返している。

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