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手がかりは石碑! 今どうなった?京都の幕末事件簿

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吉田松陰の愛弟子、久坂玄瑞が密議を重ねた島原・角屋。日本の将来を語り明かした夜―

2022/05/10

JR丹波口駅近くの京都市下京区西新屋敷の一帯は、島原とよばれる花街でした。そこで揚屋として営業していたのが角屋です。島原というと、遊郭をイメージする方もいるかもしれませんが、揚屋はそうではなく、現在の料亭にあたる店だったそう。

角屋の建築は、昭和27(1952)年に国の重要文化財に指定され、現在でも角屋もてなしの文化美術館という文化施設として残っています。そしてその建物の前にあるのが、「久坂玄瑞密議の角屋」の石碑。江戸時代末期、長州藩士で尊王攘夷派であった久坂玄瑞が、この角屋で同志と協議を重ねていました。

 

藩医の一家として生まれるも、藩政に関心をもつように

「久坂玄瑞肖像」 山口県立山口博物館蔵

 

久坂玄瑞は、天保11(1840)年5月、藩医・久坂良廸と富子の三男として、長州国萩平安古本町(現在の山口県萩市)で生まれました。早くに両親と兄を亡くした玄瑞は、15歳の若さで久坂家の当主になりながらも、藩の医学所である「好生館」に入学し、勉学に奮闘します。

その頃玄瑞を教育・指導していたのは、周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市)にある妙円寺の僧・月性。玄瑞の亡くなった兄・玄機がかつて親しくしていた人です。

月性は熱心な尊王攘夷論者。海からの外国船による攻撃から、日本を守る必要性を九州各地で説いて回っていました。このことから「海防僧」と呼ぶ人もいたとか。月性の影響で政治に関心を持つようになった玄瑞は、家業の医者ではなく、藩政に深く関わりたいと考えるようになります。この頃から、尊王攘夷を志す気持ちがじわじわと芽生えていたのでしょうね。

生涯の師、吉田松陰との出会い

安政3(1856)年、玄瑞は17歳で九州各地の文化人や学者を訪ねる旅へ。熊本で出会ったのが、尊王攘夷派の志士・宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)でした。攘夷について熱く語る玄瑞を見て、宮部は自身の友人で同じく尊王攘夷を志す長州藩士・吉田松陰に師事するよう勧めます。これが、のちに生涯の師となる吉田松陰の名を初めて耳にした瞬間です。

「吉田松陰」 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

一方松陰は、安政元(1854)年に浦賀に来航したアメリカ軍艦に乗り込み、密航しようと企てたこと(なんて大胆な行動!)がばれて、萩の実家に蟄居させられていました。旅を終えた玄瑞は、松陰と手紙のやりとりを重ね、松陰の私塾「松下村塾」に入門。そこには、のちに江戸と京都で同じく尊王攘夷を志す盟友、高杉晋作の姿もありました。松陰は玄瑞を高く評価し、才能を開花させようと高杉と競わせます。なにかと比較された二人は松下村塾の「双璧」「竜虎」と称され、その秀才ぶりが周囲に認められていきました。

そのうえ松陰は、自身の妹・文と玄瑞を結婚させています。一坂太郎氏の『久坂玄瑞―志気凡ならず、何卒大成致せかし―』によると、松陰は身寄りのない玄瑞を気の毒に思っていたそう。でも義理の弟にしてしまうなんて、相当お気に入りだったようですね。

江戸と京都で尊王攘夷活動を開始。禁門の変で斃れる

長州藩で尊王攘夷の動きが高まるなか、江戸では時の大老・井伊直弼が、尊王攘夷派の大名や藩士らを弾圧した安政の大獄がおきます。これにより吉田松陰も捕らえられ、安政6(1859)年に刑死。玄瑞は、松陰の遺志を受け継ぐかのように、尊王攘夷運動をより積極的に行うように。江戸では高杉らとともに英国公使館焼き討ちを実行してしまいます。

その頃、政治の中心地である京都では、この不安定な情勢を打開しようと朝廷と幕府を結びつける公武合体運動がおこります。この流れから、過激な尊王攘夷を進める長州藩と、一部の公家が京都から追放。世に言う八月十八日の政変です。

この後、長州藩がふたたび勢力を取り戻そうと上洛の機会をうかがっていたところに、京都の旅籠で新選組による長州藩士の捕縛・殺傷事件が発生。局長の近藤勇が「御用改めである!」と言って急襲した、有名な池田屋事件です。これに激怒した長州藩は、元治元(1864)年に御所に突入。武力衝突に慎重だった玄瑞も、強硬派に押され出撃します。京都の街中が火災に巻き込まれた、禁門の変の始まりです。

最初は優勢だった長州藩ですが、激戦の末に薩摩・会津の連合軍に追い詰められ敗北してしまいます。敵の弾丸を受けて膝を負傷した玄瑞は、御所に隣接する鷹司邸に入り自刃。25歳の若さでその生涯を終えました。

老若男女問わず自由に出入りできた花街・島原

そんな久坂玄瑞が京都でひそかに仲間と会合を重ねていたのが角屋です。角屋がある島原は寛永18(1641)年、その前身にあたる六条三筋町から移転されました。島原は単に遊宴だけの場ではなく、和歌俳諧などの文芸活動が盛んで、老若男女問わずさまざまな人が自由に出入りできた街でした。

角屋もてなしの文化美術館の中川清生さんによると、「江戸後期には詩人の頼山陽や、新選組の清河八郎などが、郷里から母親を連れて島原にやってきていました」。島原は故郷の母親を連れて来させたいと思うような、憧れの街だったようですね。

なかに入ってみると、一階は広い土間で、たくさんのかまどが並ぶ炊事場になっています。ここで多くの人たちが、幕末の志士たちをはじめとしたお客様の宴会の場へ食事を届けるため、忙しく動き回っていた姿が目に浮かびます。

新選組がつけた刀傷が残る

ちなみに角屋では、久坂玄瑞のような尊王攘夷派の志士たちだけではなく、新選組をはじめとした幕府側の人たちも訪れていました。「新選組の隊士が酔っ払って暴れた時についたとされる刀傷が現在も残っています。角屋では玄関に刀を預けるのが一般的でしたが、新選組は預けなかったようです」と中川清生さん。角屋の人たちが新選組に手を焼いている様子が想像できます。

肝心の玄瑞がどの部屋で会合をしていたのかは、実は分かっていません。玄瑞が京都で過ごした時間はごくわずか。その短い間に、角屋で豪華な料理とお酒を楽しみ、日本の未来について語り合っていたのでしょう。

 

※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです

 

<参考文献>

一坂太郎『久坂玄瑞―志気凡ならず、何卒大成致せかし―』 ミネルヴァ書房、2019年

スポット情報

店舗名 角屋もてなしの文化美術館
住所 京都市下京区西新屋敷場屋町32
電話番号 075-351-0024
営業時間 企画展「角屋蔵 吉祥の調度展」
前期 7月18日まで、後期 9月15日から12月15日まで
10:00~15:40まで(当面の間)
休館日 月曜日(月曜祝日の場合は翌日休館)
ホームページ http://sumiyaho.sakura.ne.jp/index.html

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ライター紹介

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ライター: 株式会社文と編集の杜

歴史が好きなライター・瓜生朋美が2013年に設立した編集・ライティング事務所。「読みものをつくること」を業務に、インタビュー、観光系ガイド、広告記事、書籍など、ジャンルを問わず企画・編集・ライティングを行っている。近年は、歴史イベント運営や広報物の制作も担う。2020年オフィスに表現を楽しむスペース「店と催し 雨露」を併設。イベント開催するほか、雑貨の販売も。

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