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手がかりは石碑! 今どうなった?京都の幕末事件簿

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木屋町通に石碑が3つも! 坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟らに影響を与えた佐久間象山。

2019/08/08

木屋町通には石碑が多く建てられています。なかでも多いのが、佐久間象山に関する石碑。三条~二条という狭いエリアに、三つもあります。

 

一つは、三条木屋町の北西角。高瀬川にかかる三条小橋のたもとに「佐久間象山先生遭難之碑」「大村益次郎郷遭難之碑」と連名で1本。「北へ約壱丁」とあるので、いわゆる道しるべですね。

 

 

そして、三条小橋を北へ上り、御池通りも渡った先(木屋町通御池上ル)にあるのが、この立派な石碑。「象山先生遭難碑」です。この石碑、残念ながら近づけません。高瀬川の向こうにあるのです。これは木屋町通から高瀬川越しに見た写真です。

 

 

お顔付きの石碑なんて、なかなかお目にかかれません。「象山先生遺跡表彰会」によって1915年に建てられたもので、象山先生への尊敬の気持ちがひしひしと感じられる石碑です。下の方には、漢文がかいてあります。遠くて、文字も小さく、肉眼では判別しにくいのですが、こんな言葉が刻んであるのだそう。

 

 

――――――――
嘉永以後外舶叩關
国論沸騰挙主鎖攘
当是時佐久間象山
先生以絶特之識独
排群議而唱開国竟
以此取■実元治元
年七月十一日也後
五十餘年有志胥謀
立石以表其終焉之
地距此正東五十二
尺乃先生遭難処
――――――――

 

その意味は、

 

「(ペリーが来航した)嘉永以後,外国船がやってきて開国を迫り,国論は二分したが,鎖国攘夷の論を唱える者が主であった。この時に佐久間象山先生は高い識見により攘夷論を排し開国を唱え,ついに暗殺されるに至った。元治元(1864)年7月11日のことである。50年後,有志によって石碑を建立し,終焉の地を記念するものである。この碑の場所から東へ52尺(約15メートル)が先生の暗殺された現場である。」

 

(ともに、「京都市・いしぶみデータベース」より。碑文中■で示した文字は示+固のように見え禍の異体と解釈したとの記載あり)

とのこと。

 

彼の功績をまとめてあるのですね。「象山先生遭難之碑」の存在は、わりと京都でも有名ではないかと思いますが、象山がどんな人かについては、あまり知られていないような…。少しフカボリしてみましょう!

 

佐久間象山は、1811年、信州松代藩、真田家家臣の家に生まれました。信州の真田といえば、真田幸村を思い浮かべませんか? 幸村は大坂夏の陣で豊臣家とともに散った幸村と、関ヶ原の戦いのときに有名な「犬伏の別れ」(長男の信幸は徳川方に、父昌幸と次男幸村は石田方につくことを決めた)で袂を分かった信幸の真田家が、江戸時代の末期までちゃんと続いていたのです。もともとは上田城が居城でしたが、転封されて松代藩主となっていました。象山が仕えたのは、8代藩主の真田幸貫(ゆきつら)です。

 

象山は幼い頃からお勉強ができた、いわゆる〝神童〟タイプ。和歌、漢詩、易学、数学とさまざまな学問に触れ、とにかく賢い子でした。藩主・真田幸貫は、そんな象山の才能にほれ込んだ、理解者でした。21歳の象山を、自分のそばで使える「近習役」としたのに、たったの2カ月で象山が江戸勉強に行きたいと言うと、それをOKしただけでなく、お金まで出してくれます。書物を買ったり、誰かのところへ行って入門したり。現代とは違った意味で、勉強するにもお金がかかります。幸貫は、象山の才能を見抜き、自分のブレーンとして育てっていったのかもしれません。

1842年、真田幸貫が幕府の海防係になると、象山をその顧問とします。いよいよ、これまで蓄積してきた知識を世のために活用できるポジションを得たのです。そこで、自分の考えをまとめた「海防八策」を幸貫に建言します。その内容が、すごいのです。

 

「諸国海岸要害の所に砲台を築き、平常大砲を配備し有事に備えるべき事」

「洋式の軍艦を造り、その操舵に習熟させる事」

「すぐれた人材を登用する法を設けるべき事」など。

 

ペリーが黒船で来るのは1853年ですから、10年ほど前です。この時期に、先を見こせる人が実はいたのです。信州に。しかしながら、幸貫が役を辞してしまい、この策は幕府の政策にはなりませんでした。残念…。

 

象山は勉強好きです。ですが、それだけにとどまらず、勉強したことを生かして、政策を上申したり、何かを作ってみたり。「海防八策」は日の目を見ることはできませんでしたが、その頃、江戸で学んだのが、砲術と蘭学です。蘭学を学び、洋書を読めるようになると、象山はガラスを作ってみたり、大砲を作って撃ってみたり(失敗したこともあるようですが)。とにかく行動の人でした。

 

また、江戸で塾を開き、砲術を教えてもいます。勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、橋本佐内も入門。西郷隆盛や高杉晋作とも会ったことがあります。幕末のオールスターがみな象山のもとを訪れているのです。

 

蟄居生活の後、攘夷派だらけの京都へ

 

象山のことを知るために、あと2つ、エピソードを紹介します。

とうとう、ペリーの黒船がやってきます。象山からすると「やはり来たか!」という感じだったでしょうね。そのときまた行動をおこします。「急務十事」を老中・阿部正弘に提出したのです。

「堅艦を新造して水軍を調練すべき事」「慶安の兵制を釐革すべき事」「四時大砲を演習すべき事」などなど。「前から言ってますけど!」という気持ちではなかったかと思います。これも幕府には採用されませんでしたが、阿部正弘ら幕府のお偉い方には、象山の見識と国を思う気持ちが伝わったようで、以降は象山に意見を聞くように。

もう一つ、象山の有名なお話に、「吉田松陰のアメリカ密航に関与した」ということがあります。象山も、弟子の松陰も、外国を見ることが重要という思いを持っていました。しかし、当時は鎖国をしていますので、外国へ行くことなどできません。そこで、遭難してアメリカの船に助けられ、アメリカに渡ったジョン万次郎をヒントにしたのです。…遭難なら、お咎めなしではないかと…と、そんな相談をしたのだそう。この作戦は結局上手くいかず、松陰は捕まり、象山も逮捕されます。しかもその後およそ9年も松代で蟄居することになりました(1854~1862年)。ですが、この間ももちろん象山は勉強します。特に西洋の事情や技術について学びを深め、外の世界が見えてくると、象山ははっきりと開国論者へとなっていきます。

長々と説明しましたが、ここまでちっとも京都は出てこないんです。すみません(笑)。象山の蟄居が解かれた後、1864年。14代将軍徳川家茂が象山を京に呼び寄せます。蟄居をしている間に、日米修好通商条約(1858年)が結ばれていて、すでに開国した状態です。ようやく、幕府の中枢にも、象山の見識が必要だと分かる人物が現れました。象山の登用は、のちに将軍になる一橋慶喜の進言によるものだとも言われています。

こうして、開国なんてもってのほか!の、攘夷派の浪士がたくさんいる京へやってきます。もちろん、危険は承知。でもそこで行かない象山先生ではないのです。正しいと信じたことは何としてでもやるお人です。

 

京都では鴨川べりの木屋町に住みました。 「東に鴨川が見えて、向こう岸には柳がある。右に一町余で三条の橋が見える…」と姉への手紙に記したそうです。ここを「煙雨楼」と名付けてとても気に入っていたとか。素敵な名前ですよね。その場所と思われる場所に立っているのが、3本目の石碑「佐久間象山寓居之址」です。今は駐車場の入口脇にひっそりと立っていますが、象山はここで、命を狙われながらも、つかの間、京の景色を楽しんだのでしょうか。

 

1864年7月11日。馬に乗って帰宅しようといていた象山は、浪士に襲われました。13カ所もの深手を負い、命を落とします。54歳。3月に呼ばれてきたばかりでしたので、わずか4カ月ほどの京滞在でした。

暗殺したのは、「人斬り彦斎」とも呼ばれていた尊王攘夷派の浪士、河上彦斎と言われています。直前に起こった池田屋事件の敵討ちだとか。はたまた、松代藩内にも象山は敵が多かったため、藩内の反象山派が浪士をそそのかした…などなど。暗殺の犯人と言うのははっきりしないものです。

幕末の混乱期、こんなにも先が読めて、数々の策を提案してくれていた人がいたのです。幕府にその策を有効に活用できる人材がいれば…歴史は変わっていたのかも知れません。なかなか、表舞台で活躍することはできませんでしたが、それにも負けず、勉強を続けた人。木屋町の3本の石碑を見るにつけ、象山先生の信念の強さに、頭が下がる思いです。

 

 

※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。

 

参考文献

『佐久間象山伝』大平喜間多(2013年 宮帯出版社)

スポット情報

店舗名 佐久間象山先生遭難之碑

地図

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ライター紹介

手がかりは石碑! 今どうなった?京都の幕末事件簿一覧

ちくしとみみ

ライター:ちくしともみ

京都でライター業にいそしみ十余年。2017年、編集とライティングの会社「株式会社文と編集の杜」をつくるも、実は歴史教師を目指して、歴史学科を卒業した歴史好き(中国史専攻だけど)。「歴史なんて面白くない」と言う人に出会うと、歴史学の必要性について滔々と語ってしまう悪癖があるので、普段は歴史好きであることは隠している。尊敬する人は、古代ギリシャの歴史家、〝歴史の父〟ヘロドトス。

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