あやうく殺されるところだった…‥桂小五郎(「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」)と坂本龍馬
さて、最後におまけを。こんな大事件を間一髪で逃れた2人をご紹介します!
1人は、長州の桂小五郎(木戸孝允)。「事件が起こった時に池田屋にいたものの、屋根をつたって、(池田屋の北側にあった)対馬屋敷に逃げた」とか、「一度は池田屋に行ったけれど、すぐに出て対馬屋敷に行った」説があるようです。いずれにしても、桂小五郎は対馬屋敷にいました。
現在池田屋跡の北、高瀬川にかかる姉小路橋の西詰に「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」という石碑が立っています。これは2016年(最近!)京都歴史地理同考会が建立したもの。石碑の南面には「桂小五郎寓居跡」の文字も。案内看板によると、対馬宗氏は鎖国をしていた江戸時代にも朝鮮と貿易をしていた唯一の藩。長州の毛利氏とは遠戚にあたることから幕末には、長州藩をサポートしていました。
それで、桂小五郎は対馬屋敷に逃げ込むことができたのです。長州藩邸もすぐ近くですが、そこまで行く必要がなかったのですね。
池田屋跡の北にある「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」の石碑
さてさて、もう一人はというと、幕末の人気者、坂本龍馬です。
間一髪と言うほどではありませんが、龍馬は池田屋事件が起こる3日まで京都にいました。6月2日朝、勝海舟に会うために、江戸へ向かったのです。実は池田屋事件の余波は、その翌日も続いており、6月6日にも大規模な捜索が行われました。その際、龍馬が住んでいた「大仏」と呼ばれるエリア(妙法院のあたり)も捜索を受け、龍馬の妻・おりょうの母親が捕えられ、家財道具を没収されたとか。もし、ここに龍馬がいたら……と考えずにはいられません。それこそ明治維新はどうなってしまったか。何が偶然で、必然なのか。考えさせられますね。
※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。
参考文献
『講談社現代新書 池田屋事件の研究』中村武生(2011年 講談社)
『京都時代MAP 幕末・維新編』(2003年 光村推古書院)
『中公新書 新撰組 「最後の武士」の実像』大石学(2004年 中央公論新社)
『新潮文庫 幕末史』半藤一利(2012年 新潮社)