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知将・明智光秀の足跡を追う

「本能寺の変」で知られる武将・明智光秀は亀岡にゆかりの深い人物で、
光秀の足跡をたどる亀岡観光も人気のコースのひとつです。
この秋、光秀の足跡を追ってみるというのはいかがでしょうか?

光秀と亀岡

丹波平定と亀山城の築城

織田信長の家臣、明智光秀は主君の期待に応え、近江坂本城、丹波亀山城主となり、実力をいかんなく発揮しました。特に、天正3年(1575)、信長の命を受けて着手した丹波攻略では、近畿で最後まで抵抗していたこの地域を、光秀による同6年頃からの丹波亀山城の築城・整備で一気に進展させ、同7年に完了しました。翌年の天正8年、光秀は信長から丹波を領国として与えられ、まさに絶頂期を迎えました。

明智光秀

敵は本能寺にあり―本能寺の変

光秀は「敵は本能寺にあり」と号令し、信長は光秀の軍勢を前に、熱炎の中でその生涯を閉じました。 なぜ光秀が信長を討ったのか。その動機は現在でも明らかではありませんが、いずれにしても本能寺の変はその後の日本史に多大な影響を与えました。

光秀首塚

光秀は小栗栖で「順述に二門なく大道は心源に徹す五十五年の夢覚め来たれば一元に帰す」と詠み、その生涯を終えました。光秀を介錯した溝尾庄兵衛は、その首を谷性寺の不動明王のそばに葬るよう近臣に託しました。光秀はこの不動明王を厚く尊信し、本能寺の変の時には「一殺多生の剣を授け給え」と誓願し、本懐を遂げたといわれています。

城下町を歩く

JR亀岡駅にほど近く、小高い丘に石垣と壕を遺す亀山城趾。またの名を亀宝(きほう)城ともいい、天正7年(1579)丹波平定の拠点として明智光秀が築城し、歴代城主により整備されました。慶長15年(1610)、藤堂高虎によって五層の天守閣が完成しましたが、明治11年頃、政府によって解体されました。城跡から南に広がる城下町は、京格子、虫籠窓(むしこまど)の商家や町家など、いにしえの風情を今に伝えています。

城下町

光秀ゆかりのスポット

鍬山神社(くわやまじんじゃ)

代々の亀山城主の保護を受けて栄えた氏神さま。府の登録文化財である社殿は11月中旬には、見事な紅葉に彩られ、その美しさも際立つ。

アクセス

JR亀岡駅から、コミュニティバス利用「ムツミ病院前」下車/徒歩約10分


鍬山神社

谷性寺(こくしょうじ)

明智光秀の首塚が境内で供養されていることから、通称「光秀寺」と呼ばれる谷性寺。初夏には、光秀の家紋にちなんで植えられた桔梗の花が境内を薄紫に染めあげることから、桔梗寺とも呼ばれる。周囲の山々を眼下にした客殿からの眺めは風光明媚で絶景。

アクセス

JR亀岡駅から、京阪京都交通バス利用「猪倉」バス停下車/徒歩約5分


谷性寺

亀山城趾(かめやまじょうし)

織田信長の命を受け明智光秀が築城。姿を残している濠と石垣の一部から当時の姿を偲ぶことができる。現在は宗教法人大本の亀岡本部となっている。

アクセス

JR亀岡駅より徒歩約10分


亀山城趾