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「鳥羽・伏見の戦い」に、新選組・近藤勇はいなかった―伏見深草・墨染にある「近藤勇遭難の地」

2021/05/08

石碑を巡るこのスリーズ。随分長いこと、御無沙汰してしまいました。申し訳ありません! 久々にお届けするのに選んだのは伏見・墨染にある「近藤勇遭難の地」の石碑です。

以前この連載でも少し触れたことがあるのですが、実は「鳥羽・伏見の戦い」には近藤勇は参加していないのです。その原因となったのがこの一件でした。

 

立派な武士になるために―。京都へいざ行かん!

近藤勇はご存知の方も多いでしょうが、さっとおさらいを。

生まれたのは天保5年(1834年)。武蔵国多摩郡上石原村の農家・宮川久次郎の三男です。幼名は勝五郎、後に勝太と改めます。近藤勇の実家である宮川家は農業をしていましたが、身分の低い武士でした。しかし、手当てなどはもらっていない、いわゆる浪人。(きちんとした)武士に憧れる気持ちは、父にも、勇にもあったでしょう。

 

現在放送中のNHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一も同じ武蔵国の農家で、近藤勇よりも6歳年下です。ドラマでも渋沢栄一が剣術の練習に励んでいるシーンが登場しますが、武蔵国、武州は武芸が盛ん。農家の出であってもいざというときには立ち上がる! そんな気概にあふれていたことが想像できます。

 

近藤勇は、江戸の天然理心流剣術道場「試衛館」(試衛場とも)に入門。のちに、この試衛館の創設者・近藤周助の養子となって「近藤勇」と名乗るようになりました。この試衛館には土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助らが通ってきていて、この道場が勇と運命を共にする新選組の面々の出会いの場となりました。

そして「浪士組」に参加して京へ向かい、その一部が「壬生浪士組(のちの新選組)」として、当時京都守護職にあった会津藩主・松平容保のもと、京都の治安維持につとめることになります。文久3年(1863年)、近藤勇、30歳の頃のことです。

 

新選組時代の近藤勇(国立国会図書館)

 

その後の活躍は、あまりにも有名。「御用改めである!」と、倒幕派を粛清していきます。この記事でも紹介しました。

>「新選組の絶頂期!池田屋事件。そのきっかけとなった「古高俊太郎邸跡」へ」

 

激動の慶応3年。幕府派の“都落ち”に伴い、新選組は伏見へ

めまぐるしく情勢が変わる京都で、武士として活躍する日々……。そんななか慶応3年(1867年)12月18日。近藤勇は拳銃で撃たれます。襲撃したのは、鈴木三樹三郎、加納鷲雄、篠原泰之進、阿部十郎など8人。

 

慶応3年という年は、とにかく大変な年でした。10月14日に大政奉還、11月15日に坂本龍馬暗殺、12月9日王政復古のクーデターで江戸幕府は廃止。毎月こんなにいろいろある京都って恐ろしい……。徳川慶喜は、薩長の思惑によって、領地(の半分)と官位も奪われ、もはやほとんど“ただの人”。いえ、“ただの人”であればまだいいのです、この後、「朝敵」にされてしまうとは……。

 

新選組が京都で活動した約5年の間、屯所としていたのは壬生寺や西本願寺などでした。ところが、徳川慶喜が松平容保らと京都・二条城を去り、大阪城へ行ってしまうと、新選組は伏見を任されます。京都にいる薩長軍と幕府軍が戦いになれば、伏見は最前線。新選組は伏見奉行所に本陣を置き、会津藩の兵士らと一緒に薩長軍戦うことになります。

 

歴史小説をたよりに、近藤勇襲撃事件を読んでみよう

さて、新選組ほどの人気のある歴史上のグループですから題材にした歴史小説はたくさんあります。ここからは、それらを斜め読みしながら、近藤勇襲撃事件を見ていきましょう。

小説なのでフィクションの部分もあるかもしれませんが、作家の捉えた歴史の空気を感じてみるのも楽しいものです。

 

現在、伏見は京都市内ですが、京都市への編入は1931年(昭和6年)で、それまでは伏見「市」でした。古くは豊臣秀吉が城を築き、淀川の水運で栄え、京の都とは少し違った文化を育んできたエリア。街を歩けば、独特の空気感を今も感じます。

 

いくら伏見と洛中の距離がそう遠くなかったとしても、新選組に都を追い出された感じがあることは否めません。『燃えよ剣』(司馬遼太郎)を読んでみると、新選組の伏見への本陣移動は、活躍めざましかった京を離れる、切ないシーンとして描かれています。愛妾たちにも最後のお別れに行ったりして……。

 

近藤勇が襲われたのは、新選組が伏見に移動したあと。勇が二条城にいる幕府方の役人との会議に出た帰り道でした。『燃えよ剣』によれば、土方歳三が止めるのも聞かず、伏見の奉行所を出て二条城に話をしに行ったとか。お供は20人ほど連れていきました。

 

襲撃のきっかけは伊東甲子太郎を惨殺した「油小路事件」

勇を襲った鈴木三樹三郎、加納鷲雄、篠原泰之進、阿部十郎ら8人は何者だったのか―。

 

彼らは、御陵衛士の生き残りです。御陵衛士は、伊東甲子太郎ら新選組の隊士によって結成されたグループ。ほんの少し前まで仲間であったのに、恨みを抱いた理由を知るには、伊東甲子太郎が惨殺された「油小路事件」を読み解かねばなりません。

 

伊東甲子太郎は、新選組の発足から少し遅れて新選組に合流した人物。土方歳三と同格の「参謀」として重用されていました。にもかかわらず、新選組から分離して、「御陵衛士」を結成したのは、もともと思想的に勇たちとは違っていたことと、実は薩摩に通じていたなどの説もあり、そのあたりは『新撰組血風録』(司馬遼太郎)をぜひ。篠原泰之進と伊東甲子太郎とのやり取りからは、強い勤皇思想の持主である伊東甲子太郎の新選組参加の目的が書かれています。

 

「分離」という言葉を使ってはいますが、「新選組を抜ける」なんてことは、ご法度中のご法度でした。そうして起きた新選組による伊東派への報復が油小路事件です(慶応3年11月)。詳しくはこちらに。京都駅近くにある本光寺の前に石碑があります。

伊東甲子太郎外数名殉難之跡

 

>「新選組から分離し、新選組に斬られた悲劇の志士、伊東甲子太郎最期の地。【油小路~本光寺】」

 

このとき生き残ったの御陵衛士のメンバーたちは薩摩藩邸に逃げ込みました。それが近藤勇を襲撃した面々。近藤勇へ復讐を果たす機会を狙っていたのです。

 

肩を撃ち抜かれながらも、約3キロを馬で疾走

慶應3年、12月18日。勇は街道を馬に乗って都から帰ってきたところを待ち伏せされました。

 

襲撃の描写は『新選組始末記』(子母澤寛)より。空き家の障子の陰に潜み、勇を撃ったのは、篠原泰之進。「近藤の肩を打貫タリ」「血淋漓トシテ流ルヽヲ意トセス、馬上二伏セテ逃ケ去レリ」と本人の手記を引用しています。襲撃は午後4時ごろで、冬の夕方。勇が襲われた鉄砲の音を聞いて、供のものたちの多くは逃げたものの、2人が殺されました。勇はしたたりながれる血を気にする余裕もなく、馬にうつぶせて土方歳三ら新選組の面々が待つ伏見奉行所へ戻ります。

 

永倉新八らが探索に出ますが、伊東派を捕まえることはできませんでした。傷は深く、伏見では治療できずに大阪城へ移されることに。当時すでにかなり病が悪化していた沖田総司とともに、籠に乗って伏見を出たのが翌々日、12月20日(『近藤勇白書』池波正太郎)。鳥羽・伏見の戦いが始まったのは、それから間もなく、1月3日のことでした。

近藤勇遭難の地

 

「この付近、近藤勇遭難の地」の石碑が建っているのは「京料理 清和荘」の立派な門の前。墨染通沿いです。平成21年(2009年)に、伏見観光協会と伏見納税協会青年部会によって建てられました。新選組の本陣があった伏見奉行所は現在の桃陵団地のあたり。団地の入り口に「伏見奉行所跡」の石碑が立っています。勇がどの道を通って帰ったのか分かりませんが、Googleで調べてみると約3キロ。車でも10~15分はかかります。深い傷を負いながら必死で戻った勇には、より一層遠く感じたでしょう。

 

伏見奉行所跡

 

伏見奉行所があった場所がその後どうなったのかについてはこちらでもちらっとご紹介しています。

>「村医者から維新の立役者へ。伏見の戦争遺構にもつながる大村益次郎の足跡」

 

数では優位だったのに敗戦。トップ不在で始まった「鳥羽・伏見の戦い」

残された土方歳三が指揮を取り、永倉新八、斎藤一ら、古くからの新選組メンバーと会津藩士は、自らが陣を置く伏見奉行所のすぐ前、御香宮に陣を構える新政府軍と最前線で戦いました。

 

数では圧倒的に優位な旧幕府軍でしたが、戦国時代を引きずった旧式の装備で(フランス式の装備があったという話もありますが…)、「恩」や「威信」を頼りに集まった寄せ集めの兵士たち。数ほどの戦意はありません。

 

近藤勇も松平容保も、もちろん徳川慶喜も。これまで慕ってきたトップは誰もいません。それでも、新選組と会津藩士たちは意地を見せ、まさに八面六臂の活躍を見せます。雨のように降ってくる銃弾のなか、刀や槍を持って戦いました。

 

しかし1月4日、新政府軍に錦の御旗があがり、旧幕府軍は1月6日には退却を始めます。そして、朝廷から徳川慶喜討伐の命令が出て、慶喜や旧幕府軍が「朝敵」となったのは、1月7日のことでした。

 

ここまでして戦ってきた兵士を置いて徳川慶喜が船で江戸に逃げ帰ってしまったことを、大阪に敗走した人々が聞いて、どう思ったでしょう。それでも徳川のために……と思ったでしょうか。鳥羽・伏見から始まった新政府と旧幕府の戦い、戊辰戦争は2年も続くことになりました。

 

斬首直前の勇に会ったのは、因縁深い伊東派の人物

新選組は、大阪から江戸へ向かったのち、再起を図って甲陽鎮撫隊と名を変え、甲州城を得ようとするも失敗。すでにたくさんの仲間を戦いで失い、沖田総司は病で死去、近藤勇と永倉新八とは喧嘩別れ……。意気揚々と江戸をたった頃の面影はもはやありません。土方歳三とは最後の最後、下総・流山まで行動を共にしますが、ここで勇が官軍に投降し、新選組は瓦解のときを迎えます。

 

勇を襲撃した伊東派のなかで1人、その頃の近藤勇と対面した人物がいます。このエピソードを最後にご紹介しておきましょう。

 

その人の名は加納鷲雄。近藤勇を襲撃した後、新政府軍の一員となり、戊辰戦争に参加していました。「大久保大和」と名乗っていた近藤勇が流山から板橋まで運ばれてきたところで加納と遭遇し、「やァ珍しや近藤氏」と声をかけ、勇であることを見破ったとか(『新選組始末記』)。慶応4年(1868年)4月25日、近藤勇は斬首の刑に処されます。首は新選組が大活躍した京都、三条河原に梟首されました。

 

明治に元号が変わったのは、その年の9月のこと。侍に憧れ、その侍に翻弄され続けた近藤勇。時代の変わり目に露と消えた最後の侍でした。

 

「近藤勇墓所・新選組隊士慰霊碑」は、現在も東京都北区の板橋駅前にあるそうです。勇と喧嘩別れをしたのち、明治維新を生き抜いた永倉新八が明治9年(1876年)に建立しています。新八は、どんなふうに時代を振り返ったのか。それが『新選組顛末記』。永倉新八の回顧録です。こちらもぜひ。

 

※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。

 

参考文献

『新選組始末記』子母澤寛(中公文庫1977年)

『近藤勇白書』池波正太郎(角川文庫1972年)

『燃えよ剣』上・下 司馬遼太郎(文芸春秋 1973年)

『新選組血風録』司馬遼太郎(中央公論新社1964年)

『新選組 最後の武士の実像』石学(中公新書 2004年)

『京都時代MAP 幕末・維新編』株式会社新創社(光村推古書院 2003年)

スポット情報

店舗名 この付近 近藤勇遭難の地石碑
住所 京都市伏見区深草柴田屋敷町6−7
交通 京阪墨染駅下車徒歩約5分
ホームページ https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu153.html

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ライター紹介

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ライター:瓜生朋美

京都でライター業にいそしみ十余年。2017年、編集とライティングの会社「株式会社文と編集の杜」をつくるも、実は歴史教師を目指して、歴史学科を卒業した歴史好き(中国史専攻だけど)。「歴史なんて面白くない」と言う人に出会うと、歴史学の必要性について滔々と語ってしまう悪癖があるので、普段は歴史好きであることは隠している。尊敬する人は、古代ギリシャの歴史家、〝歴史の父〟ヘロドトス。

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