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手がかりは石碑! 今どうなった?京都の幕末事件簿

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村医者から維新の立役者へ。伏見の戦争遺構にもつながる大村益次郎の足跡

2019/09/01

前回の「象山先生遭難之碑」のお隣に、もう一つ石碑があります。「大村益次郎卿遭難之碑」です。

 

 

〝遭難之碑〟が並んでいるなんて、幕末の木屋町通って怖いところです。「大村益次郎」と言っても、なかなかピンと来ないという人も多いかもしれません。「大塩平八郎?」と思った人は惜しい! そちらは天保の大飢饉の後、大阪で立ち上がった陽明学者で、今回はもう少し後の時代のお話し。

 

こちらもとても立派な石碑。高瀬川越しに見なければならず、詳細が確認できないので、何が書いているかは、「いしぶみデータベース」に頼ります!

 

――――――――――――――

大村兵部大輔諱永敏通称蔵

六後改益次郎周防国吉敷郡

鋳銭司村人文政七年三月十

日生   壮而博究東西諸邦兵

書安政三年任幕府講武所教

授文久元年転毛利藩兵学教

授慶応二年毛利藩与幕府開

釁隙大輔率藩兵連戦皆捷驍

名大振明治元年官軍戦於奥

羽函館参帷幄奏偉功二年任

兵部大輔陸海軍制及国民徴

兵之制竝定之基礎八月入京

都寓木屋町籌将設立兵学寮

及機器局   九月四日夜為刺

客所襲創甚十一月五日隊薨

年四十七十三日朝廷録其功

特旨贈従三位大正八年追陞

従二位

昭和九年七月

――――――――――――――

 

碑文の意味)

大村兵部大輔は、実名を永敏、通称を蔵六といい、のちに通称を益次郎と改めた。周防国吉敷郡鋳銭司村で文化7(1825)年3月10日に生まれた。長じて世界中の軍事学の書を研究して奥義を得た。安政3(1856)年,江戸幕府講武所の教授に任じられ、文久元年に長州藩の兵学教授に転じた。慶応2(1866)年に長州藩は幕府軍と戦端を開き、大村氏は長州兵を率い連戦連勝し、その名声は大いにあがった。明治元(1868)年に官軍が北海道や東北で戦うと、戦略を定め功績をあげた。同2年に兵部大輔に任命され,陸海軍の制度と徴兵制度の基礎を定めた。8月に入京し,木屋町に宿所を定め兵学寮及び機器局の設立計画を練っていたところ,9月4日に刺客に襲われ,傷のため11月5日に没した。享年47。11月17日に朝廷からその功績により従三位がさずけられ,大正8年には従二位に昇った。

(いしぶみデータベースより)

 

石碑に「兵部大輔」とありますが、「兵部」は、軍事をつかさどる行政機関。兵部省で一番偉い人が「兵部卿」でこれには皇室関係者が就いたようで、「大輔」はその下。今風に言うと「事務方のトップ」という感じでしょうか。幕末から明治初期に軍事の専門家として、活躍した人です。

この方、もう少し掘り下げてみましょう。

 

もともとは、村のお医者さん

大村益次郎と名乗り始めたのは、1865年からで、それまでの名前は、村田蔵六などなど(便宜上、この記事では最初からこの名前で紹介します)。1828年、長州藩、周防の国・鋳銭司(すせんじ)村(現在は山口市にあります)の医者の家に生まれました。武士ではありませんでしたが「村田」と名字を名乗っていて、村ではそれなりに敬われる家柄だったのでしょうね。益次郎も当然、父を継いで、医者になるべく、勉強を始めます。

勉強するのは医学ですが、当時の最先端は蘭学。せっかくなら、新しい知識をと思ったのか、同じ長州の蘭方医・梅田幽斎の塾に入門。オランダ語で書かれた医術書を読むべく、オランダ語を猛勉強します。象山先生もそうでしたが、とにかくこの時代の人は勉強熱心。せっかくオランダ語が読めるようになったのに、医術書だけしか読まない、なんてことはありませんよ。いろいろな本を読んで世界情勢に明るくなり、ヨーロッパの新式の銃のことや軍事関係にも詳しくなっていきます。

学ぶ意欲がどんどん湧いてくる益次郎は、大阪の著名な蘭学者・緒方洪庵の適々斎塾(適塾)に入ります。もちろんここでも猛勉強。全国から勉強好きが集まってきていた適塾で塾頭になりました。1849年、26歳のときのことです。

 

 

宇和島藩→幕府→長州藩とひっぱりだこに

この後、一旦故郷に戻り、村医者におさまり、結婚もします。しかし、世界に目を向け知識を蓄えた人物を、明治維新という時代が放ってはおきませんでした。30歳で、蘭学を藩政に取り入れていた宇和島藩に招かれます。蘭学を教えたり、兵書を訳したり。宇和島藩お抱えの学者さんになりました。

 

ちょうど益次郎が宇和島藩に雇われたのと同じ1853年、日本を揺るがす大事件が起こります。ペリーが黒船に乗ってやって来たのです。宇和島藩は四国の小藩でしたが、藩主・伊達宗城は、とても先見の明がある優れた殿さまでした。慌てふためく幕府を横目に、独自の策を練りました。なんと益次郎に軍艦をつくらせました。西洋の進んだ技術を取り入れて国を守ろうとしたのです。伊達宗城は、薩摩の島津斉彬、福井の松平春嶽、土佐の山内容堂とともに、「四賢候」に数えられる人物です。

 

しばらくして、宇和島藩主の参勤交代について江戸に行くと、今度は幕府が設置した「番書調所(ばんしょしらべどころ)」の教授になります。宇和島藩にも雇われ、幕府にも雇われ。それだけ益次郎の蘭学の知識は抜きんでたものがあったのです。

 

その才能に郷里長州藩で気付いた人がいました。桂小五郎(のちの木戸孝允)です。1680年、ようやく長州藩から声がかかります。後に幕府と宇和島藩の関係は解消して、晴れて長州藩士となりました。

 

 

いよいよ歴史の表舞台へ。西郷隆盛に並ぶ維新の功労者

長州藩士になったからといって、すぐに活躍の場があるわけではありませんでした。

長州藩そのものがとても大変な時期だったのです。

 

1863年

・攘夷を実行するべく、下関の砲台からアメリカやフランスの船を砲撃する

・八月十八日の政変で京都を追放される

1864年

・蛤御門の変→幕府により「長州征伐」が言われるようになる

・英仏蘭米の4か国艦隊に下関を砲撃される

 

長州藩は幕府とも、諸外国ともピリピリムード。この状態を打開するには……。それが薩長同盟です。長州にやってきた坂本龍馬との秘密の打ち合わせの場に、益次郎は軍事担当者として出席しています。

 

そしてとうとう、益次郎の知見を活かす戦が始まりました。長州征伐にやってきた幕府軍を、参謀として迎えうち、勝利します。もともとは村医者だった益次郎の活躍は、長州藩内、特に代々武士の家に生まれた根っからの侍たちに与えたインパクトは大きなものだったでしょう。数では圧倒的に不利であったにもかかわらず、新式の銃と、これまで学んできた兵術で長州藩を救ったのです。さらに時代を早送りしますが、江戸城無血開城後、江戸に残っていた幕府方「彰義隊」の討伐、北陸や東北の反政府勢力の追討と、次々と成し遂げて、益次郎の評価は急上昇。その名声は西郷隆盛に匹敵するか、軍事のことだけに限れば、隆盛以上の功績をあげたと言ってもいいくらいになりました。

 

 

なぜ、暗殺されてしまったのか。早すぎた「農兵論」

混乱の時代が終わって、新しい時代を作る作業に入った1869年(明治2年)。日本の軍隊をどうするかという問いに、益次郎が一つの提案をしました。それが「農兵論」です。冒頭で紹介した石碑の文章に「国民徴兵之制」とあるように、これはいわゆる徴兵制でした。今までのように、武士だけが戦うのではなく、国民から兵士となるものを募って常設の軍隊を作ろうとしたのです。長州の高杉晋作が作った「奇兵隊」にはすでに武士以外の人々も参加していましたし、外国の事情に通じていた益次郎はヨーロッパですでに取り入れられていた徴兵制を日本でもと考えたのです。それに、益次郎はもともと武士ではありません。自身がそうであるように、もっと広く人材を募るべき、と考えたのは自然な発想のように思います。

 

ところが、それでは困る人が大勢いました。明治になって行き場を失った武士たちです。特に江戸幕府を倒すために戦ってきた薩摩藩の藩士たちは、一生懸命戦った挙句に失業しかねない事態です。この農兵論は大久保利通や西郷隆盛も大反対。採用されることはありませんでした。

 

この後、益次郎は新たに創設された兵部省の大輔となり、大阪と熊本に鎮台(軍隊)をおき、京都にフランス式の陸軍操練所を設けます。これから気を付けるべきは西だと考えていました。西南の役を見越しているような熊本鎮台の設置には恐れ入ります。

 

益次郎が京都で襲われたのは、その直後のことでした。休暇を取り、実家の様子でも見に行こうとして、江戸を立ち西へ向かうついでに、京都で自らが設けた軍の施設を視察したりしていた時でした。木屋町の宿にいたところを8人の暗殺団に襲われます。襲撃したのは、益次郎の農兵論を良しとしない人たち、新政府に不満を持つ元藩士らでした。

 

このとき益次郎は重傷を負うものの、一命をとりとめます。「重症の膝頭より溢れ出る流血の応急処置として浴槽に入り水に浸して出血を緩和せしめる」(「大村益次郎 幕末維新の兵制改革」絲屋寿雄著 中公新書)など、医者ならではの行動が良かったのかもしれません。しかし傷は深く、大阪の病院で亡くなります。46年の人生でした。

 

 

益次郎が残したもの

最初に紹介した石碑がとても有名なのですが、その石碑を見たら、北へ十歩くらい行って右、鴨川のほうを向いてみてください。もう一つ石碑があります。「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」というもので、おそらくここが益次郎が襲われた宿があった場所なのでしょう。

 

 

建てられたのは大正15年。冒頭の石碑よりもこちらのほうが先です。「陸軍少将山口鹿太郎建立」とあり、個人によって建てられたものです。古い石碑で、何を刻んであるのかは読めませんでしたが、またしてもいしぶみデータベースに頼ります。

 


維新征東ノ殊勲国民皆兵ノ提唱京阪地方兵備ノ

創建者タル公ハ明治二年九月四日当十番路次内

ニテ反賊ニ襲ハレ重傷遂に薨去セラル


(いしぶみデータベースより)

 

訳はいしぶみデータベースにはなかったのですが、なんとなくわかりますよね。「国民皆兵ノ提唱」「京阪地方兵備ノ創健者」がポイントです。日本で徴兵制が始まったのは益次郎の死からわずか4年後のことでした。結局言った通りになったのです。そして益次郎が整備した軍関係の施設は太平洋戦争が終わるまで名前を変えたりしながらも存続することになりました。

益次郎が死の前に訪れた伏見の練兵場は、江戸時代、伏見奉行所があったところで、幕末の鳥羽伏見の戦いで奉行所が焼失し、その場所を練兵場としました。その後、伏見工兵第十六大隊となり、その隊は陸軍の「第十六師団」という大きな師団に属することになります。伏見に戦争遺構が多く残っているのはこういった経緯があるのです。そのため、益次郎は「京阪地方兵備ノ創健者」というわけです。現在その場所は団地になっていて入口には、伏見奉行所跡の石碑と共に「伏見工兵第十六大隊跡」の石碑が建っています。

 

学問を好み、蘭学を学び、その知識を活かして明治維新の立役者になった大村益次郎。その足跡は、こうして現代にもつながっています。

 

 

※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。

 

参考文献

『大村益次郎 物語と史蹟をたずねて』土橋治重(昭和58年 成美堂出版)

『大村益次郎 幕末維新の兵制改革』絲屋寿雄(昭和46年 中公新書)

 

<その他のスポット>

兵部大輔従三位大村益次郎公遺址

中京区木屋町通御池上ル西側

 

「伏見工兵第十六大隊跡」

伏見区西奉行町(桃陵団地入口)

スポット情報

店舗名 大村益次郎卿遭難之碑
住所 中京区木屋町通御池上ル東側

地図

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ライター紹介

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ちくしとみみ

ライター:ちくしともみ

京都でライター業にいそしみ十余年。2017年、編集とライティングの会社「株式会社文と編集の杜」をつくるも、実は歴史教師を目指して、歴史学科を卒業した歴史好き(中国史専攻だけど)。「歴史なんて面白くない」と言う人に出会うと、歴史学の必要性について滔々と語ってしまう悪癖があるので、普段は歴史好きであることは隠している。尊敬する人は、古代ギリシャの歴史家、〝歴史の父〟ヘロドトス。

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