- 2019/04/02
- <堂本印象美術館> 日本画の領域を広げ、障壁画、さらに抽象表現へと進んだ造酒屋の三男
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河井寛次郎(1890〜1966)は陶芸家です。
生まれは現在の島根県安来市ですから、京都人というのは少しはばかられます。それでも1914年以来、京都に暮らし続けました。
70代の頃。自宅にて。
河井が京都に来たのは東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科を卒業し、京都市陶磁器試験場に勤め始めたのがきっかけです。
試験場を辞してからも京都を離れなかったわけですが、その理由を問われると決まってこう答えたそうです。
「そこに窯があったから」。
河井が暮らしたのは清水寺に近い東山五条。ここは清水焼の中心地で、今も窯元が軒を連ねる中、かつて主人が暮らしたまま河井の私邸は河井寛次郎記念館として公開されています。
1937年に完成。自身で設計した独特の町家。
わたしは民藝が好きです。
民藝というのは、無名の職人が実用のために伝統的な手仕事で作り続けてきた品こそ美しいと説く思想です。
「用の美」を唱え、生活道具の工業化や作家主義の芸術に対抗するように、昭和の初めから「民藝運動」が起こりました。美学者の柳宗悦が運動の中心的存在で、河井寛次郎は柳の盟友のひとりでした。全国各地の職人を激励し、普及運動もしていったのです。
中国や朝鮮の古陶磁を範に作品で評価された後、民藝へ傾倒していった昭和初期から戦前の作品。
それでも、自身の作風は民藝を超えていったように思います。
伝統的な手法を尊重しながらも、優れた科学者でも「釉薬の魔術師」といわれ、さまざまな色彩を表出させました。それだけではなく、造形、紋様は根源的でさえありました。
晩年の代表作「三色打薬扁壺」1963年。
また、陶磁器だけでなく河井は木彫にも取り組み、不思議な彫刻を作り出しました。本格的な取り組みは60歳になってからで、「手」は重要なモチーフとなりました。仕事をする手に対する尊敬や感謝があったのだろうといわれています。
1954年、64歳の時に仕上げた木彫像。
河井は詩人でもありました。
人生観、仕事観などを短い文にし、自ら揮毫したのです。そんな作品も一部館内に展示されていますが、「暮らしが仕事 仕事が暮らし」という河井の短文は記念館を見学するのに役立ち、心打たれるものです。
現在の記念館は、河井が30歳の時に陶芸家の5代目清水六兵衛から窯ごと譲り受け、その後に自身の設計で改築しました。河井の生家は大工で、普請に当たっては安芸から兄がやってきて棟梁を務めたそうです。
2階に上がり、吹き抜けから下階をうかがう。客間の様子は筒抜だ。
玄関を入るとすぐに広い板の間があります。部屋の傍に小さく囲炉裏が切ってあり、2畳の上がり座敷があります。ここが主人の居場所で、この板の間はお客さんを迎える場所。河井は人を寄せるのが好きだったそうです。
河井が使い続けた登り窯。かつて東山五条の界隈には、登り窯を持つ窯元があった。
客間のから中庭に出て、奥が仕事場です。最奥には登り窯。もう焚かれることはありませんが、東山五条の古い時代を知る貴重な登り窯です。
ろくろ場の縁側の先は藤棚。そろそろ見頃の季節だ。
それにしても気持ちのいい中庭です。
焼きあがった陶器を並べるなど、実用的な意味もあって作ったといいますが、居住スペースから仕事場までの中間で、さまざまな思索をしたのではないかと想像させます。河井の美意識は住まいの各所に生かされ、暮らしを大切にしていたことがわかります。
「暮らしが仕事 仕事が暮らし」というのは、暮らしを大事にしない人は仕事も雑、その逆も然り、という戒めでしょうか。
居住スペースは2階部分が家族の居室です。
1階の客間の天井の吹き抜けになっていて、2階には吹き抜けに面して開放的な板の間があります。そこに、がっしりとした机と椅子が置かれています。驚いたことに、ここは河井の書斎だったいうのです。密室ではありません。たぶん家族の姿も見え、暮らしの音も耳に届いたことでしょう。暮らしを遮断して何とか文章を書いているわたしからすると驚きでした。
繰り返しますが、「暮らしが仕事 仕事が暮らし」といった河井寛次郎ならではかもしれません。そんな先人にあやかれば、もっと深い文章が書けるようになるかと思い、河井の使った椅子に腰掛け、机に向かってみました。
撮影してくれたのは、河井の孫で記念館の学芸員である鷺珠江さんです。
偉大な芸術家にあやかろうというわたし。河井寛次郎の使った椅子には実際に腰掛けることが許されている。