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2023.01.27

京都の繁華街・祇園にあるビルの前にたつ「薩土討幕之密約紀念碑」の石碑

 

「薩土密約」を見て、“薩長“では?と思った方もおられるかもしれません。慶応2年(1866)、薩摩藩と長州藩によって結ばれた「薩長同盟」は、一度は耳にしたことがあると思います。

ですが今回は、“薩長”ではなく、“薩土”のお話。薩摩藩と土佐藩が結んだ「薩土討幕之密約」成立の中心人物である、乾退助(のちの板垣退助)を軸にご紹介します。

 

板垣退助といえば、明治初期の自由民権運動の先頭に立った人物。憲法の制定や国会開設に尽力し、「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が有名ですよね。

実は、幕末には、土佐藩士の一人として、幕府を倒すべく活動していたのです。一般社団法人板垣退助先生顕彰会の理事長で、板垣退助の玄孫にあたる高岡功太郎さんに詳しい話を聞きました。

 

オランダ式兵学を学ぶため江戸へ。築地の土佐藩邸で水戸浪士をかくまう

乾(板垣)退助/出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 

乾退助は天保8年(1837)、土佐藩馬廻(うままわり)役・乾栄六正成(えいろくまさなり)の嫡男として、高知城下の中島町(現在の高知県高知市)に生まれました。馬廻役とは、土佐藩のなかでも身分の高い上士にあたる家格です。また、退助は勤王派で、開港問題などに対する幕府の弱腰の姿勢を批判していました。

 

元治2年(1865)4月、退助はオランダ式兵学を学ぶため、江戸へ留学。また築地の土佐藩邸の惣預役(総責任者)も務めることに。ちょうどその頃、藩邸に逃げ込んできた勤王派の水戸浪士たちをかくまう「築地土佐藩邸水戸浪士隠匿事件」が発生します。「退助は浪士たちを独断でかくまうのですが、後々この事件が非常に重要になっていきます」(高岡さん)

 

倒幕派の志士たちと、料亭「近安楼」で密談

その頃京都では、土佐藩の前藩主で藩の実権を握っていた山内容堂が、朝廷と幕府を結び付けて、幕藩体制の立て直しを図ろうと考える、公武合体論を唱えていました。

 

この容堂の中立的な姿勢に危機感を持った倒幕派の土佐藩士・中岡慎太郎は、江戸の退助へ手紙を送ります。これを受け取った退助は、江戸留学を中断して上京。慶応3年(1867)5月18日、京都・東山の料亭「近安楼」で中岡慎太郎、福岡孝弟、広島藩の船越洋之助らと武力倒幕の密談をします。この場所が写真の「薩土討幕之密約紀念碑」の石碑がたっているあたりです。翌日、退助は容堂に倒幕論を説くため面会を願い出ますが、病気を理由に断られてしまいます。

 

「薩土討幕之密約」を締結し、薩摩・土佐両藩の軍備強化などを約束

中岡慎太郎(左)と西郷隆盛(右)
/出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 

「近安楼」での密談を経て、慶応3年(1867)5月21日、薩摩藩家老・小松帯刀の寓居で「薩土討幕之密約」が成立。薩摩藩からは帯刀のほか、西郷隆盛、吉井友実、そして土佐藩の乾退助、谷干城、毛利恭助と中岡慎太郎らが同席。両藩が交わした密約は、次のような内容でした。

 

・土佐、薩摩の両藩は、藩論を武力による倒幕で統一する。

・両藩は軍備を強化し、幕府に立ち向かえるような兵力をつける。

・薩摩藩が幕府と戦うことになれば、土佐藩は乾退助を盟主として、軍を率いて薩摩側に加勢する。

・築地の土佐藩邸にかくまっている水戸浪士たちを薩摩藩邸へと移管させる。

 

翌日、退助は容堂と面会し、密約を報告。水戸浪士たちをかくまっていることも告げ、もはや後に引けない状況だと伝えます。容堂は密約を了承し、退助を土佐藩の武力部門のトップに据えます。これを受けた退助は、土佐藩内で銃を用いた近代式の軍隊を組織していきました。しかしこの後、事態は意外な方向へ進みます。

 

「薩土盟約」で土佐藩は大政奉還へ藩論を統一。反対意見の退助は失脚へ

坂本龍馬(左)と後藤象二郎(右)
/出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 

退助らの密約が容堂に認められた一か月後、長崎から京都へやってきたのが、坂本龍馬と後藤象二郎です。この二人は、徳川慶喜に政権を返上させようとする「大政奉還」の案を持っていました。同年6月、坂本龍馬、後藤象二郎、薩摩藩の小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛らが「薩土盟約」を締結。武力による倒幕を回避して大政奉還を実現させようとする内容です。

 

後藤象二郎によって、「薩土盟約」は容堂にも伝えられます。容堂は、過激な武力倒幕論よりも平和的に幕府を解体する方が良いと考え、藩論を大政奉還へと転換。しかし、「戦争でできた秩序は、戦争でしか取り返すことができない」と最後まで反対していたのが退助だと言われています。容堂は「退助はまた暴論を吐くか」と相手にしなかったとか。藩論に背く退助は失脚してしまいます。

 

ついに約束が果たされる! 鳥羽伏見の戦いに土佐藩が参戦

キャプション:京都市伏見区「月桂冠南浜町ビル」の駐車場にある「伏見土佐藩邸跡」の石碑

 

慶応3年(1867)10月初旬、築地の土佐藩邸にかくまわれていた水戸浪士たちが薩摩藩邸へと移管。同月14日には大政奉還の意思を表明する文書が朝廷に提出され、翌日に徳川慶喜が御所に参内して許可されます。さらに12月、小御所会議によって慶喜の辞官納地が決定。慶喜や会津・桑名といった幕府側の勢力は、二条城から大坂城へと退去し、京都を掌握した薩摩・長州などと武力衝突する事態へと発展していきます。

 

江戸では、薩摩藩邸に移された水戸浪士らが、幕府を挑発。幕府側である庄内藩が薩摩藩邸を放火する「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」が発生します。「結果的にこの事件が、鳥羽伏見の戦いのきっかけとなりました」(高岡さん)

 

鳥羽伏見の戦いが始まる直前、谷干城は西郷隆盛に呼び出され「まもなく戦が始まる。ついにあの時の約束(薩土討幕の密約)を果たしてもらう時が来たぞ」と告げられます。京都の土佐藩邸に戻った谷干城は、重臣たちにこれを伝えますが、大政奉還論を進めようとする土佐藩の重臣たちは「急ぎ土佐藩兵を出陣させよ。しかし、乾退助だけは絶対に上京させるな」と指示。やむなく谷干城はこの命令を伝えるため早馬で土佐へ向かいます。

 

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発。翌日、在京の退助派の土佐藩士は密約を守って戦闘に加わります。1月6日に土佐に到着した谷干城らによって、退助にも戦の状況が知らされます。土佐藩主・山内豊範は、京都の重臣たちの言葉を反故にして退助の失脚を解き、軍の大隊司令に任命。藩兵を率いて出陣させます。京都に到着した退助は容堂を説得し、藩論を武力討幕へと統一。退助は2月14日、土佐藩士約600名からなる「迅衝隊(じんしょうたい)」を率いて京都を出発しました。

 

この日が先祖の武将・板垣信方の命日にあたることから、退助は苗字を「板垣」に復姓。退助は先祖の力を借りるかのように、慶応4年(1868)の甲州勝沼の戦いで、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破。その後も東北を転戦し、勝利を収めました。

 

明治時代に入ると、板垣は自由民権運動を展開。これには、退助が戊辰戦争で経験したある出来事が影響しています。新政府軍として会津に攻め入ったとき、板垣の目に映ったのは、城に立てこもる藩主と、逃げ出す民衆の姿。この光景に、今後は武士だけではなく、四民平等の制度で国家と人々が苦楽を共にしていかなければならないと考えるようになったといわれています。自由民権運動の原点が、戊辰戦争にあったのですね。

 

「薩土討幕之密約」を結び、武力討幕を主張し続けた退助。この石碑からは、日本のあるべき姿を模索する土佐藩の幕末のワンシーンが目に浮かびます。

 

※ここで書いた歴史上の出来事については、諸説あります。この記事は下記書籍や現地看板を参考に、作成したものです。

参考文献

中元崇智『板垣退助』中央公論新社、2020年

 

板垣退助先生顕彰会 参考文献

明治功臣録刊行會編『明治功臣録』明治功臣録刊行会、1915年

平尾道雄『無形板垣退助』高知新聞社、1974年

横田達雄編『寺村左膳道成日記 1~3』青山文庫後援会、1978年

林英夫編『土佐藩戊辰戦争資料集成』高知市民図書館、2000年

宇田友猪『板垣退助君伝記 1』原書房、2009年

尾崎卓爾『中岡慎太郎先生』マツノ書店、2010年(復刻版)

『維新前後経歴談』(所収『維新史料編纂会講演速記録』)マツノ書店、2011年(復刻版)

平尾道雄『子爵谷干城伝』マツノ書店、2018年(復刻版)

板垣退助先生顕彰会編『板垣精神』板垣退助先生顕彰会、2019年

 

※石碑には「薩土討幕之密約」と「討幕」の表記が使われていますが、本文中では広い意味で幕府を倒す活動を表わす「倒幕」の表記を使用しました。

 

※日付は旧暦、年齢は数え年で表記しました。

 

Information
店舗・施設名 薩土討幕之密約紀念碑
住所 京都市東山区清本町368ー3
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