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夢枕獏氏の小説と漫画『陰陽師』が火付け役になって、平安時代の陰陽師・安倍晴明は今やブームの人。その晴明が暮らした屋敷趾に寛弘4年(1007)、一条天皇の勅旨で建立されたのが晴明神社だ。平安京随一の陰陽師として知られた安倍晴明だが、その割には生涯官位は低かった。それを惜しみ、晴明の功績をたたえるために造営されたのがこの神社だった。記録によるとその社域は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売に広がっていたという。後に秀吉の都造り政策や度重なる兵火などで縮小されてしまったが、氏子たちが中心となり、各式年祭毎に社殿が整備改修された。現在の本殿は昭和3年の御大典記念事業として新築されたものだ。
 最近、境内の整備事業が進んでいる。社務所なども改築され、今年夏には平成7年に架け替えた際の橋の親柱を使って、小さな一条戻り橋も誕生した。

  安倍晴明(921~1005)はその出生からしてミステリアスで、安倍保名と和泉の国の葛の葉狐との間に生まれたという伝説もある。が、辞典などを調べると、実際は讃岐の生まれで父は大膳大夫益材の子とある。
 成長した晴明は、陰陽師の賀茂忠行にその能力を認められ、弟子となって陰陽道・天文学を極めた。星を見て吉凶や世の中の動きを予言し、式神を自由に操った晴明の不思議なエピソードや伝説は『今昔物語』『古今著聞集』にも出てくる。花山(かざん)天皇の退位を予言したり、天皇の命で那智の天狗を封じたりした話は有名。ほかに謡曲「鉄輪」(かなわ)にも晴明が登場する。様々な伝説を残し、寛弘2年9月26日、安倍晴明は85才でこの世を去った。その安倍晴明の邸宅趾が晴明神社なのだ。 晴明ゆかりの地はたくさんある。式神を隠していたとされる一条戻り橋は晴明神社のすぐ近く。一度死んだ晴明が蘇ったという伝説が伝わる真如堂、晴明座像が安置されている長仙院、嵐山の晴明のお墓などは、晴明さまファン必見。
 

一条戻り橋ってどんな橋?

 晴明神社から南へ100m、堀川に架かる橋が一条戻り橋。『源氏物語』にも「ゆくはかへるの橋」と書かれ、和泉式部も歌に詠んでいる。安倍晴明も自分が使っていた式神を封じ込めたといわれ、『陰陽師』にも度々登場する橋なのでまだ読んでいない方はご一読を。
 戻り橋の名の由来はというと…。平安初期の文章博士・三善清行が亡くなった際、親の死に目に会えなかった息子の浄蔵が駆けつけ、この橋で棺と対面。「ひと目だけでも会いたかった」と涙を流すと清行が生き返り、親子は抱き合って喜んだとか。渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした伝説などこの橋には様々なエピソードが残っている。また、千利休が豊臣秀吉の怒りをかうきっかけとなった大徳寺金毛閣の利休像の首、さらに切腹した利休自身の首がみせしめにさらされたのもこの橋だった。
 その名から、戻ることを嫌って、婚礼の列、あるいは葬列はこの橋を絶対に渡らない。逆に旅に出る人はこの橋を渡って出かけた。戦地に赴く際も無事に帰ってこられるようにとこの橋を渡って出生したという哀しい歴史もこの橋には刻まれている。
 一条戻り橋の下の川は堀川。今は水がなく、コンクリートの川底が見えているが、その昔はかなり水かさもある急流だったようだ。

 

写真は晴明神社内に再現された一条戻り橋

 
市バス「一条戻り橋」下車すぐ

毎年9月22・23日には晴明神社の例祭が、晴明の命日にあたる9月26日には嵐山にある晴明のお墓・嵯峨墓所で祭典が行われている晴明神社。来年の秋は、安倍晴明の「没後千年記念大祭」が開催されることになり、今から話題を呼んでいる。
 記念行事の期間は10月4日(土)~13日(祝日)。4日には山城舞楽の奉納、11日は武者小路千家の家元を招いての献茶祭などの行事が続き、一般の人も参拝できる。
 同時期、映画『陰陽師2』の公開が予定され、9月10日からは「京都文化博物館」で「陰陽師」展を開催するなど、安倍晴明さまブームはさらに加熱しそうだ。
 
 
 
晴明神社にお参りした後は、西陣の町家が立ち並ぶ堀川通りを散策しながら美味しいお菓子のお店を訪ねてみてはいかが?中立売通を少し北へ入った所に佇む一件のお店が明治15年創業の塩芳軒。名物の「聚楽」はお店でしか求められないので、ぜひ立ち寄ってみて。こだわりの純和三盆でできたお干菓子もお土産にはぴったり。
●所在地

上京区黒門通中立売上ル

●電話 075-441-0803
●営業時間
9:00~18:00
●定休日 日・祝・第3水曜日