おでかけ

2023.05.01

漱石が歩いた墨染通をたどる

深草地域ライターのたけばしんじです。

今回は少し時代をさかのぼってのお話です。

 

夏目漱石が晩年、深草を訪れていたことをご存知でしょうか。

亡くなる前の年の春、深草で1泊しているのです。

 

大正4(1915)年3月21日の日記に、次のようにあります。

「午後二時より京坂電車墨染より竹藪梅の花を大亀谷、兵隊かけ足で二三度四列位のもの行き過ぎる。太閤の千畳敷の跡、仏国寺、桃陽園、左右の梅花、の中に道白く見ゆ。上は平ら。家十戸。」

 

「京坂」は誤字で、京阪のこと。京阪電鉄は漱石が来る5年前の明治34(1910)年に開業しています。当時はまだ1両だけの路面電車のようなものでした。

開業当初の京阪電車、稲荷新道駅(現在の伏見稲荷駅)。〔京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブより〕

 

漱石が歩いた道を、たどってみることにしました。墨染駅から墨染通を東へ歩きます。

墨染駅。現在の駅前とは違い、100年前は竹藪や梅林が広がっていたのでしょうか…。

 

漱石は途中で兵隊の列とすれ違ったと書いています。明治中期から、このあたり一帯には陸軍の施設が次々に建てられ、兵舎や演習場が多くありました。現在は聖母女学院本館となっている赤レンガの第16師団司令部も、漱石が来た頃にはすでに建っていました。

緩やかな上り坂には、古い家も残っています。行軍する兵隊の列を想像しながら歩きました。

 

JR奈良線の踏切を渡ると、深草大亀谷万帖敷町に入ります。この辺りが伏見城の北端で、漱石が「太閤の千畳敷の跡」と書いているところと思われます。かつては文字通りの平坦な土地でしたが、昭和時代に宅地化が進み、今は複雑な地形になっています。

今は坂の多い万帖敷町。平坦だった台地を階段状に造成し、たくさんの住宅が建てられています。

 

墨染通はやがて南東方向に曲がり、古御香宮の参道が見えてきます。漱石が訪れたのと同じ年に出版された案内書『新京都めぐり』には、次のように書かれています。

「字峠なる御香宮御旅所の傍より街道に出づ。街道は北藤森より、南六地蔵に至る。南に行けば、左に高く仏国寺あり。」

 

古御香宮の参道を左に見て、道は峠へ。

 

この道は平安京と奈良を結ぶ古代からの街道で、八科峠(やしなとおげ)は急坂の難所でもありました。

左:八科峠の道標。右:「伏見区大亀谷峠町」と書かれた古い町名表示。

 

さて,漱石はこの日、八科峠からほど近い「桃陽園」に宿泊しました。桃陽園は、井山正之助という人が大正初めに建てた貸別荘で、前掲の『新京都めぐり』にも「眺望又佳なり」と紹介されています。現在は、京都市桃陽病院と京都市立桃陽支援学校になっています。

 

京都市桃陽病院入口に今も残る異国風の石像は、井山正之助が制作したもの。

 

当時、桃陽園には画家の津田青楓(つだせいふう)が滞在していました。青楓は現在の京都市中京区の生まれ。20歳で徴兵され、深草の歩兵第38連隊に入ります。その後、医務室勤務となり、仕事のかたわら、深草の浄蓮華院に一室を借り、後に図案集『うづら衣』となる作品を描き始めました。日露戦争に従軍後、除隊となり、関西美術院で浅井忠らに師事。フランス留学を経て、東京へ転居して夏目漱石の門を叩きます。それから漱石が没するまで交流し、『道草』『色鳥』『明暗』などの装丁も手掛けました。

 

大正4年3~7月に、青楓は家族とともに桃陽園に滞在しながら、作品を制作しました。このとき、漱石を誘ったのです。漱石は青楓が手配した木屋町の旅館に逗留中、1晩だけ深草の桃陽園に泊まりました。

 

少し脱線しますが、青楓は漱石に油絵を教えたそうです。漱石は若いころから絵に関心があり、留学時代にパリで会った浅井忠とも親交しました。

 

青楓は漱石の絵について、次のように記しています。

「すべてが薄ぎたなく、法も秩序もなく、滅多やたらに塗りまくつてある。画家の仕事をしたあとの筆洗をぶちまけたやうな、分析の出来ない色が入り乱れてゐる。」(津田青楓『漱石と十弟子』)

もうボロカスです。ところが、しばらくすると良い風景画を描くようになって、

「おれは死ぬ迄に一つ津田をおれの画の前でお辞儀させる様なものを一つ描書いてやる」(津田青楓「漱石先生の画事」原文のまま)と言い、それからどんどん上達したとか。

 

上:桃陽病院へと続く一本道(現在)。下:かつての一本道(出典「未来へ紡ぐ深草の記憶」撮影時期不明)

 

WEBサイト「未来へ紡ぐ深草の記憶」には、桃陽園へ続く一本道の写真があります。大正時代よりはずっと後と思われますが、漱石が書いている「左右の梅花、の中に道白く見ゆ。」というイメージに重なります。

 

仏国寺を訪ねて

大正4(1915)年3月22日、桃陽園で迎えた朝のことを、漱石の日記は次のように描写しています。

「井戸に行つて顔を洗ふ。宇治川と巨椋池を眼前に見る。仏国寺へ行く。高泉の開山、聯(れん)には支那沙門高泉拝題とあり、普光明殿には曇華の落款あり。山門石段なし、横門丈残る。

鳥鳴く。何ぞと聞けば、チンチラデンキ皿持てこ汁のましょ。」

 

津田青楓も桃陽園の環境について、こう書いています。

「遠望すれば遥かに宇治川が蜿蜒(えんえん)と流れ、朝日山が霞の中に頂をあらはし、左には小栗栖村や山科村が、起伏する山のあひだから藪影に見られる。近くには老木の多い梅屋敷があり、そこを横ぎれば高泉和尚の開基になる仏国寺がある。」(津田青楓『漱石と十弟子』)

仏国寺は、八科峠を見下ろす高台の上にあります。「黒田長政屋敷跡参考地」という石柱のある区画の横に細い通路があり、階段を上ると広い駐車場に出ます。漱石のいう横門は、このあたりにあったのでしょうか。

 

 

住職にお話を伺いました。往時は今の京都老人ホームあたりまでが境内で、いくつかの堂宇が立ち並んでいたそうです。ところが明治時代になると後継者不足から荒廃が進み、正式な住職がいない状態が続きました。漱石が訪れたのは、そんな時期だったようです。今の住職のお祖父様が仏国寺に入られたとき、漱石の探訪については何の記録も残っていなかったとのことです。漱石が普光明殿と書いている本堂は、昭和9(1934)年の室戸台風で被災し、その後、現在の本堂に建て替えられました。

 

大正時代の仏国寺本堂(出典:宮崎安右衛門『野聖乞食桃水』国立国会図書館デジタルコレクション)

 

現在の本堂内部。中央に後水尾天皇の宸筆「大円覚」の勅額が掲げられています。

 

仏国寺の開山、高泉禅師。曇華道人とも号しました。

 

高泉禅師の書

 

漱石が仏国寺で見た聯とは、中国の建物の玄関口に掲げられる細長い額のことで、日本では黄檗宗の寺院で多く見られるそうです。本堂にいくつか掲げられていました。

聯の一つ。「沙門高泉拝題」とあります。漱石もこれを見たのでしょうか。

 

漱石は以前から、高泉禅師の書が好きだったようです。『草枕』には、次のような一節があります。

「余は書においては皆無鑒識(かんしき)のない男だが、平生から、黄檗の高泉和尚の筆致を愛している。隠元も即非も木庵もそれぞれに面白味はあるが、高泉の字が一番蒼勁(そうけい)でしかも雅馴(がじゅん)である。」

蒼勁とは、枯れた味わいで力強いこと。雅馴とは、上品で洗練されていること。

 

ところで、漱石が日記に記している「チンチラデンキ皿持てこ汁のましょ」とは何でしょうか。鳥の鳴き声を表現しているようですが…。そういえば、私が仏国寺を訪問した日も、ウグイスの谷渡りが聞こえていました。ウグイスの「法、法華経」、ホトトギスの「てっぺん欠けたか」、ウズラの「ご吉兆」など、野鳥の鳴き声を言葉に置き換えたものを、「聞きなし」というそうです。

 

津田青楓『漱石と十弟子』を読んでいると、桃陽園についてこんなことが書かれていました。

「今梅林の梅が真つさかりで、頬白という鳥が沢山、面白い唄をうたっていますよ。」

 

もしやと思い、ホオジロの聞きなしについて調べてみると、「一筆啓上仕り候」とか「源平つつじ白つつじ」とか、いろいろある中に、「ちんちろ弁慶皿持って来い」というのがありました。「チンチラデンキ…」は、これの変形に違いありません。

 

仏国寺境内からの眺望。漱石が桃陽園から眺めた風景を想像させます。

 

さて、仏国寺を後にした漱石一行は、八科峠を南に下り、六地蔵から京阪電車に乗りました。萬福寺、平等院、興聖寺を回り、温泉に入った後、電車で木屋町の宿に帰っています。

 

その後、持病の胃潰瘍が悪化して寝込んだため、青楓が東京の鏡子夫人に電報で迎えを頼みます。そして4月17日、29日間の京都滞在を終え、漱石は鏡子夫人と一緒に東京へ帰りました。6月から9月まで、自伝的小説といわれる『道草』を朝日新聞に連載、翌年5月から『明暗』を連載しますが、未完のまま12月9日に胃潰瘍で亡くなりました。

 

漱石は生涯に4度京都を訪れています。明治40(1907)年の訪問での体験は、『虞美人草』の執筆に存分に生かされています。そこで、深草を訪れた大正4(1915)年の滞在経験も小説に反映されていないかと、『道草』と『明暗』を読み返してみました。

 

まず目に飛び込んだのは『明暗』の冒頭。「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下した。」驚いたことに、この小説の主人公は津田という名前です。そして新婚の津田夫婦の両親が、それぞれ京都在住という設定。全編を通じて、京都という地名は38回出てきます。ただ、それは親のことを婉曲に表現しているだけであって、京都で物語が展開したり、京都について語られたりということはないようです。津田という人物も、青楓がモデルというわけではなさそうです。

 

一方、『道草』には、京都という地名が1回しかでてきません。ところが、そこに何が書かれていると思いますか?…なんと、こう書かれているのです。

「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。彼所に、ちんちらでんき皿持もてこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」

 

ああ、これはまさに深草の、大亀谷の樹上でさえずるホオジロではないですか!

なんだかとても嬉しくなりました。

仏国寺境内に咲くハナミズキ

 

Information
店舗・施設名 仏国寺
住所 京都市伏見区深草大亀谷古御香町30
営業時間 ※通常、9時から16時までは、本堂を開けているそうです。少人数なら、本堂に上がっての拝観も可。また、閉まっている場合は、インターホンを押してくださいとのことでした。

Writerたけばしんじ

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Writerたけばしんじ

深草地域の文化「保存・継承・創造」プロジェクト実行委員、伏見チンチン電車の会代表、ステンシル作家、その他得体の知れぬ肩書が複数。 あまり人に気付かれることのない、実生活には無関係な重箱の隅を、穿った視点で追究してみたいと思います。 1987年日本大学文理学部史学科卒業。本業は教育関係。

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