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学芸の都歩き。京都人の私邸をめぐる。

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<堂本印象美術館> 日本画の領域を広げ、障壁画、さらに抽象表現へと進んだ造酒屋の三男

2019/04/02

桜が咲きました。

春たけなわですね。

わたしのお花見は、銀閣寺から京都大学農学部の北側に延びる疎水分流に沿った遊歩道です。京都に移住して以来、あちこちを歩くのですが、左京区の北部に暮らしていますので、まだまだ西の方は未開拓。そこで、この春は西に向かってみました。

金閣寺から龍安寺を経て、仁和寺へ向かう山沿いの住宅地に「きぬかけの路」という観光道路があります。2.5kmの道のりの、ちょうど中間あたりに衣笠山があります。その昔、宇多天皇が真夏に雪見をご所望し、考えた結果、衣笠山に絹をかけたという故事が、「きぬかけの路」の由来です。その衣笠山の東南の麓に不思議な建物がありました。南欧の別荘風といったらいいのか、白い壁面や窓枠には細い曲線で複雑な装飾がなされています。

それが堂本印象美術館。現在は京都府立になっていますが、もともとは日本画の巨匠、堂本印象の個人美術館でした。

 

 

堂本印象(1891〜1975)。

 

堂本印象美術館は1961年に開館。ヨーロッパを訪ねたときに見た邸宅や宮殿を参考にして堂本自身がデザインした。

 

 

堂本印象は京都人です。

生家は上京区に代々続く造酒屋で、屋号を「丹波屋」といいました。

堂本は三男。父は芸術家とも親交があり、自身も古美術、茶の湯に通じた風流人で、そんな父の影響があったのか、堂本は幼い頃から絵を書くことや読書が好きでした。明治の後半、当時は小学校の6年間が義務教育。その先の上級学校には普通科だけではなく、商業、工業はもとより美術学校もそろっていました。自分の将来を早めに決めるような仕組みだったのですね。

堂本は京都市立美術工芸学校図案化に進み、卒業後は今の京都市立芸大である絵画専門学校を目指しました。

ところが、父が事業に失敗。堂本が20歳のときには他界してしまいました。そんな生家の大異変のため、堂本は絵画専門学校の進学をあきらめて三越の図案部に就職しました。反物の図案を考案し、下絵を描く仕事です。明治になって西洋化が進見ましたが、大正になっても主流は和服でした。

やがて堂本は西陣の龍村平蔵の工房で、西陣織の帯や反物の図案を描くようになりますが、この龍村との出会いが人生を大きく変えます。龍村は堂本の才能を高く評価して援助を申し出たのです。

そして、堂本は念願の絵画専門学校に入学。27歳の時でした。

 

《木華開耶媛》1929年。初期の作風の極み。現在も高い人気を誇っている。

 

《兎春野に遊ぶ》1938年。三菱財閥の総帥、岩崎弥太郎の還暦祝いとして描かれた。

 

絵画専門学校で本格的に日本画を学び始めると、堂本はメキメキ実力を発揮していきます。

入学の翌年には第1回帝展に応募して入選。その後は、この発足したばかりの帝展を舞台に活躍していきます。堂本の眼差しは花鳥風月に向いて、季節の何気ない風景を丹念に、時は壮麗に捉えて描いていました。

一方で、初期の代表作である《木華開耶媛》が象徴するように、宗教や神話の世界へ関心を深めて独自の解釈で描いていきました。そして、大徳寺の塔頭である龍翔寺の襖絵、杉戸絵を描いたのを皮切りに、仁和寺、東福寺、東寺と、京都を名だたる寺院に作品を提供していきました。しかし、創作活動は戦争で中断を余儀なくされてしまいます。

戦後、堂本は大きく作風を変えていきます。それまでは花鳥風月、宗教画など伝統的な日本画を踏まえた作風だったのですが、現代に目を向け始めるのです。それはヨーロッパ旅行でさらに拍車がかかりました。1951年、堂本は日本の画家として戦後初めて渡欧。

パリを中心に、スペイン、イタリア、西ドイツ、スイスと半年間ヨーロッパに滞在したのです。

 

《生活》1955年。自ら「新造形」と名付け、抽象画も描いた。

 

《風神》1961年。イタリア・トリノで開いた個展で発表した6曲屏風。

 

ヨーロッパを旅した時、すでに堂本は61歳になっていました。

名声も立場も得て、それらを捨てるかのような新しい作風への挑戦です。「伝統を打ち破ることこそ、伝統を継ぐこと」と言っていたそうです。そして、渡欧から10年後に私設美術館として堂本印象美術館を建てます。

堂本にとって、新しい作風に挑み続けたのも、美術館を作ったのも後進への応援の気持ちが強かったようです。美術館は自身の作品を展示するだけはなく、同世代の画家や後輩画家の展覧会を積極的に開催しました。

そこには、やはり父の死で苦学していた時に、自身も支援者によって助けられたことが大きかったのでしょう。

 

三輪良平《八朔》2003年。京都国立美術館蔵。

 

堀井香坡《少女》昭和前期。京都市立嵯峨小学校蔵。

 

 

堂本が美術館に込めた後進への思いは、堂本が没しても、さらには府立になっても受け継がれていきました。

ここは、企画展で堂本以外の画家の作品を展示し、日本画の幅広さを感じさせてくれる場所になっているのです。この春の企画展は4月3日から5月19日まで「絵になる姿〜装い上手な少女・婦人・舞妓たち」。古くから日本画の主な画題であった色とりどりの衣装をまとった女性像が並びます。

出展作品は大正、昭和、そして平成の各時代に京都で活躍した日本画家たちが描いたものを中心に、堂本の美人画も加わります。外の世界に桜の花が咲き乱れ、散り乱れていく間、美術館の内部は華やか女性たちで満たされるのです。

 

美術館は、室内装飾から椅子などの調度まで堂本の作品。訪ねた日は肌寒く、マフラーをしていました。

スポット情報

店舗名 京都府立堂本印象美術館
住所 京都市北区上柳町26-3
電話番号 075-463-0007
営業時間 開館時間 9時30分〜17時(入館受付は16時30分まで) 
休館日 月曜(祝日の場合は翌日火曜) 
4月20日(日)、5月12日(日)には学芸員によるギャラリートークがあります。
美術館の隣は堂本の旧邸がありますが、立命館の管理。
そこが5月3日(祝)に開放され、横溝ひろし講演会「写真家が見た〈芸・舞妓の美〉〜花街を撮り続けて45年」が開催されます。
料金 入場料 一般500円(65歳以上は無料)
ホームページ http://insho-domoto.com

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ライター紹介

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藍野裕之

ライター:藍野裕之

フリーライター。 東京生まれで埼玉育ちながら、学術と芸術の都に憧れ続け、ついに50歳を過ぎて京都に移住。市内の東北、修学院離宮の真下に落ち着き、学芸三昧を目指して日夜そぞろ歩きを繰り返している。

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