中也18才の頃
黒い帽子に黒コート、長い髪の姿はフランスの詩人ランボーの影響という。

JR湯田温泉駅から歩いて約10分、湯田温泉街の中ほどに中原中也記念館がある。
この場所は中也生誕の地で、医院を営んでいた実家があったが、1972年に焼失。94年、その跡地に記念館が建てられた。火災を免れたカイヅカイブキの大木だけが今も記念館正面に残り、当時の様子を窺わせている。

 むき出しのコンクリート、大きなガラス窓から差し込む自然光。吹き抜けの1階展示室には中也の直筆原稿や日記のほか、コート、机などの愛用品、また中也ゆかりの人々などが展示されている。
2階展示室はおもに映像・音響を主体とした構成で、感覚的に中也の世界を体験できるようにつくられている。

中原中也記念館
コンクリートむき出しの建物が、広い前庭の奥に位置している。

 学芸員の桝田さんが案内をしてくれた。
その桝田さん、中也についてあまりに詳しいので、
「中也に恋をしているんですか?」といじわるな質問をしてみた。
「もし同じ時代に生きていたなら、ただ遠くで見守っていたいひとですね。」とすかさず答えが返ってきた。

吹き抜けの第1展示室

 中原中也は明治40年(1907)、山口県吉敷町に生まれる。家は医院を営み、なに不自由なく育てられた。8才のとき、弟が亡くなり、やり場のない悲しみを歌に託したのが最初の詩作である。以後、詩の世界にのめり込み中学を落第。京都の立命館中学校に転校する。16才のとき、舞台女優の長谷川泰子と出会い、同棲。18才で泰子とともに上京、ここで小林秀雄と親交を深めるが、泰子は小林のもとへと走る。

案内をしてくれた学芸員の桝田さんは、中也についてとても詳しい。

その後、多くの同人誌に発表を続けるとともに、フランスの詩人、アルチュール・ランボーの訳詩を手がける。26才で結婚。翌年、詩集「山羊の歌」を刊行する。やっと軌道に乗ったかに見えた矢先、長男が病没。この頃から精神衰弱が昂じる。気持ちを整理し、詩作に専念するため帰郷を決意。ようやくまとめた第二集の原稿を清書し終えたころ、結核性脳膜炎を発病。ひと月の猶予も無く永眠する。わずか30年の生涯であった。第二集は小林秀雄の手で、翌年「在りし日の歌」として刊行。扉の裏には「亡き児文也の霊に捧ぐ」とある。

若い女性客が多く訪れている。
お話を伺った方は、東京から来られていた。

 生前に刊行した詩集はわずかに1冊。
生涯一度も働くことなく詩的彷徨を続けた中也であるが、没後、全国的な評価を得るのに、多くの時間を要してはいない。

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