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第9回 龍馬最期の地・京都~近江屋事件(1)

~迫り来る刺客。いよいよ舞台は近江屋へ~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

元治元年(1864)8月1日にお龍と内祝言を挙げた龍馬は、お龍を寺田屋に託し、勝海舟のもとで東奔西走することになります。
しかし、勝塾に亡命浪士が多数いることを幕府が察知。元治元年(1864)10月22日 勝海舟は軍艦奉行を罷免され(『維新土佐勤王史』)神戸海軍操練所は翌年(1865)3月18日、廃止され、龍馬らは勝海舟の斡旋もあり薩摩藩の庇護下に入ることになります。

慶応2年(1866) 1月21日京都小松邸で薩長同盟締結に立ち会った龍馬は23日お龍の待つ寺田屋へともどります。深夜伏見奉行所配下の襲撃を受け、手傷を負いながらも伏見薩摩藩邸に保護され、その後、西郷隆盛らと共に薩摩に渡り、傷を癒すため霧島温泉に湯治に行きました。
(第3回 伏見の龍馬、第4回 伏見の龍馬(2)参照)

「酢屋」界隈

「酢屋」界隈は今は繁華街になっています。(木屋町三条下ル一筋目西入ル)

次に京都にもどってくるのは慶応3年6月13日で、中岡慎太郎の日記で確認できます。
慶応3年(1867)6月24日付の姉乙女あての書簡に「当時私ハ京と三条通河原町一丁下ル車道すやに宿申候」とあり、龍馬が「酢屋」にいたことが本人の手紙でわかります。
6月中旬に材木商の「酢屋」中川嘉兵衛宅に入ってから、10月13日に「近江屋」に移るまでの4ヶ月の間も、じっとしている暇はありません。その間にも大坂往復二回、兵庫から土佐、長崎、再び土佐、9月29日には五年ぶりに高知の実家に戻り姉乙女ら家族と再会します。10月9日 中島作太郎、岡内俊太郎、戸田雅楽と共に、大坂から京都へ上り、龍馬は中島作太郎と共に、酢屋に入り、岡内は土佐藩邸に入ります。
(10月14日付佐々木高行宛岡内俊太郎書簡)


龍馬は10月13日土佐藩邸近くの河原町蛸薬師下ル 醤油商「近江屋」井口新助宅に移ります。土佐藩下横目岡内俊太郎の書簡抄(『新修防長回天史』)によると、人との応対に不便であるので、龍馬は10月13日に土佐藩邸に近い河原町「酢屋」に移り、岡内は土佐藩邸に、中島信行は酢屋に留まったとあります。 二条城へ登城した後藤象二郎からの大政奉還の一報をここで待ちわびていたのです。 同日、二条城に召集された在京の十万石以上の諸藩重臣に大政奉還受諾の諮問書が示され、翌14日、幕府は、朝廷に政権奉還の上表を行いました。(『徳川慶喜公伝史料編』) この頃、尾崎三良(戸田雅楽)は、龍馬の意を受けて「新官制議定書」を作成しました。 『坂本龍馬海援隊始末』(坂崎紫瀾)では参議職に龍馬の名前がなく、「西郷の問いに、自分は役人嫌いだ」と書かれています。しかし『坂本龍馬関係文書』本文の「新官制議定書」には参議職にはっきりと坂本の名前が挙げられているのです。 

近江屋跡石碑

近江屋跡には石碑が残ります。

龍馬は土佐藩邸に身を寄せるべく依頼していましたが二度の脱藩の罪のためか許されませんでした。10月18日付の朋友望月清平に宛てた龍馬の手紙によると、薩摩の吉井幸輔より二本松の薩摩藩邸に入るよう勧められているが土佐藩に対して「実にイヤミであるから万一のときは主従共にこのところ一戦の上、土佐藩邸に引き取り申すべし」と述べている。さらに安全な居所の周旋を依頼していたが叶いませんでした。


龍馬、最後の足跡

近江屋に移って間もなく生涯最後の旅にでかけます。

10月23日 

後藤象二郎から、松平春嶽宛山内容堂の書簡を届けるため福井へ行くよう命令を受け、岡本健三郎とともに翌日福井へ向け旅発ちます。(10月24日付岡本健三郎宛龍馬書簡)

11月1日

福井藩主松平茂昭に拝謁(春嶽に拝謁とも)し、後藤象二郎からの春嶽の上洛要請を伝え、当時蟄居・謹慎中の三岡八郎(由利公正)との面会をもとめます。(『由利公正覚書』)

11月2日

「莨屋(たばこや)旅館」で三岡八郎(由利公正)の来訪を受け、朝から深夜まで来たるべき新政府財政策について語り明かしました。(『由利公正覚書』)

11月3日

福井を発ち(『由利公正覚書』)、11月5日、京に到着します。(『神山郡廉日記』)
この頃龍馬は、「新政府綱領八策」(諸侯会盟の覚書)を起草します。
龍馬直筆の「新政府綱領八策」は、現在二葉残っており、
国立国会図書館と長府博物館が所蔵しています。

11月7日

四条室町上ル西側「沢屋」旅館に滞在していた陸奥宗光に鳴海屋与三郎の長崎行きについて注意を与えています。(11月7日付陸奥宗光宛龍馬書簡)

11月10、11日

龍馬は、大阪滞在中で薩摩藩海軍に属していた広島藩士林謙三宛に書状を送った。林謙三は促されるように上京するが(11月11日付林健三宛龍馬書簡)16日近江屋に着き惨劇を知ることになる。

11月14日

龍馬、近江屋の土蔵から母屋の二階へ移る。(岩崎鏡川『坂本龍馬関係文書第二』)

11月15日

「三条大橋制札事件」で逮捕された宮川助五郎が釈放されることになり、その引き受け先について龍馬は中岡慎太郎と面談します。(『殉難録稿』)
夜、「近江屋」にて、訪れた中岡慎太郎とともに京都見廻組に襲われ落命しました。

 

このときの様子は次回詳しくお届けします。
次回はいよいよ龍馬最期の地・近江屋に迫ります。

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近江屋跡へのウォーキングルート

京都府京都市中京区塩屋町330(現在はサークルK)

  • 阪急京都線「四条駅」下車。河原町通りを北へ。徒歩約5分。
  • 京阪本線「祇園四条駅」下車。四条通りを西へ向かい、四条河原町交差点を北へ。徒歩約10分。

サン・クロレラ 私たちは自然の恵みを通して、健康寿命を延ばす、真の健康社会を目指します。


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