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第4回 伏見の龍馬(2)

~寺田屋における龍馬の負傷と伏見薩摩屋敷への逃走劇~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

龍馬が兄権平宛に慶応2年(1866)12月4日付けで差し出した、一年間に起こった出来事を報告する手紙のなかに襲撃の様子が詳しく書かれています。前回、材木納屋に到るまでの部分を紹介いたしました。今回は、龍馬と共に寺田屋で襲撃を受けた長府藩士三吉慎蔵の日記を読んでみましょう。龍馬とは違う目で見た臨場感が伝わってきます。


寺田屋の襲撃 ~長府藩士 三吉慎蔵の日記より~

伏見薩摩屋敷址石碑

一月二十三日夜
坂本氏のみが京都より帰着につき、兼ねて約し置きたる通り手当て致し、夜半まで京都の様子、尚お過る二十一日、桂小五郎、西郷との談判(薩長両藩和解して王政復古を企画すること)約決の次第、委細坂本より聞き取り、此の上は明二十四日出立にて入京の上、薩摩に同道と談決したり。されば王道回復にいたるべしと一酌を催す用意をなし、懇談終わり、夜半八つ時(午前2時頃)ごろに至り、坂本の妻二階下より走りあがり、店口より捕縛吏入り込むと告げる。ただちに、用意の短銃を坂本氏にわたし、拙者は手槍を伏せ覚悟する。このとき一人が刀を携え我々の休所へ来たり。不審の義これあり尋問すると案内もなく押し入る。 我々は誰何し薩摩の宿に無礼するなと叱れば、彼は偽名なりと云う。故に、疑いあれば当所(伏見)の薩摩邸に引合うべし、明白なりという。彼はまた云う、両人とも武器を携え居るは如何と。それ武士の常なりと答えると彼は階下に去る。この機に乗じ、二階の建具を一目に打ち除け、拙者は手槍を携え、坂本氏を後ろに立て必死となる。たちまち階下より数人押しあがり、各々得物を携えつ、肥後の守より上意に付き慎みおれと声高く呼び立てるにより、我は薩摩人なり上意を受くべき者に非ずと云うを合図に、兼ねてより約せる覚悟の通り、銃槍をもって発打し突き立つる。彼に死傷あり階下に退く。その際一名坂本氏の左脇に来たり刀をもって拇指より持銃に切りつく。坂本氏傷を負う。
この時槍をもって防ぎしも坂本氏装薬(弾込め)叶わざる由を告ぐるにより、この上は拙者必死に打込まんと云うを坂本氏引きとめ、彼等退きし猶予の間に裏手に下り、この場を切り抜け去るべしと云う。その意に任せ、直ちに坂本氏を肩に掛け、裏口の物置を切り抜け、両家程の戸締りを切り破り、挨拶して小路にのがれ出で、暫時両人とも意気を休めそれよりまた走る。途中寺ありこの囲い板を飛び越えんとするに、近傍多数探索者あるようすに付き、道をてんじて川端の材木貯蔵あるを見つけ、その棚の上に両人ともひそかに忍び込み、種々死生を語り、もはや逃げ道あらず、このところにて、割腹し彼の手にたおれるをまぬがるにしかずと云う。
<以上>

前回、龍馬の手紙で読んだ部分と同じ場面です。
今度は龍馬の手紙でここから先を読んでみましょう。

伏見薩摩屋敷への逃走劇

<龍馬の手紙より>
ついに横町にそれこんで、御国の新堀の様なるところ(龍馬の実家、高知城下「才谷屋」の裏には「新堀」と呼ばれる小川があった)にゆきて町の水門のよりはい込み、その家の裏より材木の上にのぼり寝たるに、折り悪く犬が吠えて実に困りいりたり。そこにて両人その材木よりおりしが、ついに三吉はまず屋敷にゆくべしとて立ち出でしが屋敷の人と共に迎えにまいり、私も帰りたり。
<以上>

龍馬は手傷をおって意識朦朧で、あまりよく覚えていなかったのでしょうか、三吉慎蔵が伏見薩摩屋敷へ助けを求めに行く場面はいたって簡潔に述べています。同じ場面の三吉慎蔵の日記を読んでみましょう。

伏見薩摩屋敷址

伏見薩摩屋敷址

伏見薩摩屋敷址前を流れる壕川

伏見薩摩屋敷址前を流れる壕川

<三吉慎蔵の日記より>
坂本氏いわく死は覚悟のことなれば君はこれより薩邸に走りつけよ、もし途にして敵人に逢わば必死それまでなり。僕もまた此の所にて死せんのみと。時すでに暁なれば猶予むつかしと云う。その言にしたがい直ちに川端にて染血を洗いわらじを拾おて旅人の容貌を作し走り出ず。その際市中の店頭に既に戸を開く者あるをもって、なお心急ぎに二町(約220m)あまり行く。幸いに商人体の者に逢い薩邸のある所を問うに、これより先一筋道にて三丁(約310m)余りなると云う。即ち到る。
<以上>

薩摩屋敷から留守居の大山彦八が直ちに壕川を薩摩の旗印を立てた船でくだり龍馬を迎えに行きます。無事に戻った龍馬を一同は歓声をあげて迎えました。


寺田屋騒動のその後

吉井幸輔が薩摩京屋敷から馬で駆けつけ、西郷隆盛より兵士一小隊(約60名)と医師がさしむけられ龍馬の警護と治療にあたります。寺田屋は事件の翌日、伏見奉行所の家宅捜索をうけ、のこされた短銃及び書類、用金等が没収され、寺田屋登勢も奉行所から厳しい取調べをうけました。
龍馬は1月29日まで伏見薩摩屋敷に滞在し、2月1日西郷隆盛の命にて吉井幸輔が兵士一小隊と共に迎えにきます。その夜、龍馬は籠にのせられ、お龍は男装し兵士にまぎれ、京都薩摩藩邸までおくり届けられます。二月末まで手厚く看護され、その後西郷隆盛、吉井幸輔らとともに薩摩蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、霧島温泉で療養します。
これが、のちに日本で始めての新婚旅行といわれることになります。しかしながら、慶応二年(1866)より二年前の元治元年(1864)8月1日 京都東山粟田 青蓮院塔頭金蔵寺にて龍馬とお龍は内祝言をあげています。次回はこのことを詳しく述べることにします。

京都の「龍馬の足跡」を巡る旅はまだまだ続きます。
第5回にもご期待下さい。

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京都・伏見「伏見薩摩屋敷址」へのウォーキングルート

京都府京都市伏見区東堺町

  • 京阪本線「丹波橋」駅または近鉄京都線「近鉄丹波橋」駅下車。
    京阪側1番出口を出て京町通を南へ。
    一筋目の下板橋通を西(右折)へ
    竜馬通り商店街を経て蓬莱橋手前を西(右折)へ。
    徒歩約15分

サン・クロレラ 私たちは自然の恵みを通して、健康寿命を延ばす、真の健康社会を目指します。


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