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第2回 坂本龍馬、お龍 旧蹟地に石碑を建てる(2)

~坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

柳馬場三条下ル周辺 坂本龍馬は文久三年(1863)ごろから亡くなる慶応三年(1867)までのほぼ4年間、京都を中心に活動しています。龍馬の京都での生活を支えた人々の中でも、お龍は特別な存在といえるでしょう。
  お龍に関する資料は少なく、一般的に知られる人物像は小説などで創作されたもののように思われます。お龍が自らのことを語った記録がふたつあります。
  ひとつめは「反魂香、続反魂香」。お龍は龍馬が亡くなった後、明治8年(1875)に西村松兵衛と再婚し、横須賀で暮らすことになります。当時その近くで暮らしていた元海援隊士安岡金馬の子息、安岡重雄がお龍から聞き取った話をまとめ、明治32(1899)年2月から33年にかけて雑誌「文庫」に発表しています。「文庫」は当時、青年向けの投稿文学雑誌で研究資料としては長く忘れ去られていたようです。 もうひとつは「千里駒後日譚」。土佐出身の川田雪山(瑞穂)が明治32年(1899)11月3日から29日まで、6回に亘り「土陽新聞」に連載したものです。
  お龍の回想録を元に京都での足跡をたどってみましょう。


お龍の京都での足跡

 お龍は天保12年(1841)青蓮院宮侍医楢崎将作の長女として生まれ妹二人弟二人と共に何不自由なく暮らしていました。父将作は梅田雲浜、頼三樹三郎、池田大学らと親交があったため安政五年(1858)の大獄の折に連座で投獄されます。翌年夏に釈放されますが、三年後の文久二年(1862)正月二十日に柳馬場三条下ルの自宅で病死します。享年五十歳、お龍二十二歳のときでした。その後一家離散しお龍は木屋町三条あたりに母妹と共に借家暮らしを始めます。母貞が騙されて、光枝は島原の遊郭へ、起美は大坂の芸娼妓に売り飛ばされたのはこのころの話です。

 父将作の死後約二年、元治元年(1864)五月ごろ龍馬とお龍は初めて出会います。そのころ龍馬は東山区の三十三間堂南大門の南、大仏南門通にあった河原屋五兵衛の隠居所に中岡慎太郎、元山七郎、望月亀弥太、菅野覚兵衛、池倉太、山本甚馬、吉井玄蕃、等と共に隠棲していました。そこへ賄いとして住み込みで働いていたのがお龍の母貞でした。

 元治元年(1864)六月二日、龍馬は江戸の勝海舟の元へ行きます。その直後六月五日に池田屋騒動が起こり望月亀弥太や北添佶摩が遭難しました。  八月一日の夕方、龍馬が江戸から戻り、青蓮院塔頭金蔵寺(東山区三条通白川東付近)の住職智息院が仲人となって内祝言を挙げますが、お龍は寺田屋に預けられることになります。龍馬が寺田屋で急襲されるのはそれから二年後の慶応二年(1866)1月のことです。

2008年10月5日 京都龍馬会がお龍の実家付近に石碑を建立しました。 碑文は以下の通りです。


坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡

坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡

(正面) この付近 坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡
(南面) 2008年10月 特定非営利活動法人京都龍馬会 建之

石碑解説

この付近、柳馬場三条下ルには、のち坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)の実家がありました。
  お龍は、青蓮院宮に仕える内・外科医、楢崎将作の長女です。

天保12年(1841)に富小路六角付近で誕生し、しばらくしてこの地に移り住んだと思われます。お龍の自宅が柳馬場三条下ルにあったことは、当時の医師名鑑といえる『洛医人名録』(文久元年〈1861〉刊行)や、姉乙女宛の龍馬の手紙(慶応2年〈1866〉12月4日付)に明記されており、確実です。

 お龍には、父母のほか、弟妹が4人もおりましたが、家事を任されることもなく、華道、香道、茶道などのおけいこごとに専念できたようです。父在世中は、いわば良家のお嬢さまとして、裕福に暮らしていたといえます。
安政5年(1858)~6年の安政の大獄で、父将作の仕えた青蓮院宮尊融法親王(のちの中川宮朝彦親王)が厳しい処罰をうけます。残念ながら、将作がこの時期、どのような政治思想をもっていたかまったく明らかではありません。
しかし大獄に連座した梅田雲浜や頼三樹三郎、池内大学などと親交をもっていたようですし、薩摩島津斉彬の命をうけて政治活動を行っていた西郷隆盛の定宿の鍵屋直助方は、このちかくの柳馬場錦小路上ルに位置しました。
また梅田の弟子で、のち池田屋事件に連座する西川耕蔵(北村屋太助)の住宅も、至近の富小路三条西入ルにありました。楢崎家が彼らの交流の場になっていたとしたら、この地は幕末政治史の重要史蹟のひとつといえるでしょう。
  文久2年(1862)6月20日、父楢崎将作が亡くなると、お龍ら一家の生活は一変します。長弟太一郎はまだ幼少で、亡父に代わって家族をやしなうことができず、とうとう一家はばらばらになります。
お龍とは別行動をとった母貞と末妹の君江は、洛東大仏方広寺南門前(現在の三十三間堂南大門)の河原屋五兵衛(もしくは五郎兵衛)の隠居所に居住する、土佐亡命志士の賄いのため、住み込みで働きます。ここに龍馬が住んでいたのです。これがお龍と出会うきっかけとなります。
龍馬はさきに紹介した姉宛の手紙に、お龍に関するさまざまなエピソードを記し、「まことにおもしろき女」と紹介しています。
龍馬が愛したお龍の人格の形成された場所、それは父の死まで一家団欒をすごした当柳馬場三条下ルの居所であったにちがいありません。
以上の理由から、当地を幕末史、とりわけ坂本龍馬に関する重要史蹟として認め、石碑を建立するものです。

歴史地理研究者 中村武生


京都の「龍馬の足跡」を巡る旅はまだまだ続きます。
第3回にもご期待下さい。

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坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡へのウォーキングルート

京都府京都市中京区柳馬場通三条下る槌屋町84

  • 市営地下鉄 東西線・烏丸線「烏丸御池」駅下車。
    三条通を東へ進み、柳馬場通りを南へ。徒歩約10分。
  • 京阪本線「三条」駅下車。三条通を西へ進み、柳馬場通りを南へ。徒歩約15分
  • 阪急京都線「烏丸」駅下車。四条通を西へ進み、柳馬場通りを北へ。徒歩約15分

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