TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 京都 坂本龍馬伝 幕末の京都に思いを馳せて  > 京都・龍馬の足跡を歩く 第1回 坂本龍馬、お龍 旧蹟地に石碑を建てる

京都・坂本龍馬伝TOPへ戻る

足跡一覧へ戻る


第1回 坂本龍馬、お龍 旧蹟地に石碑を建てる

~坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡~

特定非営利活動法人 京都龍馬会理事長 赤尾博章

京都市中京区木屋町  京都における坂本龍馬ならびに龍馬を支えた人々ゆかりの地には、史実として確認されていながら顕彰されていない場所がたくさんあります。京都龍馬会では創立15周年記念事業として、それらの地に石碑を建てる活動をすすめています。由緒地に石碑を建立することはその地の歴史を後世に伝える上で意義深いものと考えています。
建碑は龍馬ファンの皆様の募金によるもので、設置場所もご好意によりご提供戴いております。
 一基目の石碑は、平成20年10月5日、歴史地理学者 中村武生先生の監修により坂本龍馬妻お龍の実家 楢崎家跡(京都市中京区柳馬場三条下ル「晃庵」前)に建てました。
 また、平成21年3月29日には、京都市中京区木屋町六角下ル都会館「龍馬」前に二基目の石碑を建立致しました。中村武生先生による碑文、解説は以下の通りです。



坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡

坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡

(表面)此付近 坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡
(北側面)此付近 京都府知事 中井弘 幕末期寓居跡
(南側面)二〇〇九年三月 特定非営利活動法人京都龍馬会建之

石碑解説

坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年(1862)6月20日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟をふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの借家」に移住します。

こののち一家は離散し、お龍(鞆)は単身七条新地の扇岩なる店に入ります。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。その縁で龍馬とお龍(鞆)は出会うことになります。木屋町の住居は、その直前まで住んでいた地として無視できません。 というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソードに、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代のことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と愛したお龍(鞆)のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。 なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事や京都府知事を歴任する中井弘も、中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。あわせて顕彰します。

歴史地理研究者 中村武生


まだまだある 石碑を建立すべき場所

今後の建碑予定地で、すでに場所がきまっているのは「坂本龍馬お龍仮祝言挙式の地」 京都市東山区三条通白川東南側 東山ユースホステル前(元青蓮院塔頭金蔵寺跡)です。
お龍の回想録「反魂香」(雑誌「文庫」連載第一回 明治32年(1899)2月11日 安岡秀峰 聞書)に「元治元年(1864)八月一日に金蔵寺の住職智息院が仲人となって本堂で内祝言をした」との記載があります。
 このほか京都市内には、石碑を建立すべき場所がまだまだあります。 龍馬とお龍出会いの地、洛東大仏南門前、河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所(京都市東山区本瓦町付近)、七条新地(扇岩)跡、西林寺跡(楢崎家菩提寺、京都市中京区裏寺町通蛸薬師上ル西側)、お龍祖父楢崎大進(大造)居宅跡(京都市中京区御幸町通三条下ル)、お龍父楢崎将作居宅跡(お龍生誕地か?京都市中京区冨小路三条下ル)等々。 今後、DigiStyle京都でも、このようにまだまだ知られていない龍馬関連のスポットをご紹介していきたいと考えています。
 また、石碑を建てるにはその費用もさることながら建碑場所の確保が一番大切です。由緒地のお近くにお住まいの方がいらっしゃいましたら是非とも御協力賜りますようお願い申し上げます。

足跡一覧へ戻る



坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡へのウォーキングルート

京都市中京区材木町184 都会館1F

  • 京阪本線「三条」駅から 三条通を西へ進み、木屋町通りを南へ。徒歩約7分
  • 阪急京都線「河原町」駅から 四条通を東へ進み、木屋町通りを北へ。徒歩約10分

サン・クロレラ 私たちは自然の恵みを通して、健康寿命を延ばす、真の健康社会を目指します。


京都・坂本龍馬伝TOPへ戻る

▲ページ先頭へ戻る

無題ドキュメント