TOP  > 京都を知る・学ぶ  > 新撰組と京都  > 第3回 池田屋事変を実証する(1)古高俊太郎(2)


  1. 古高俊太郎の人物像と生い立ち   5. 古高俊太郎の自白について
       
  2. 勤皇家古高俊太郎に影響を与えた人々   6. 六角獄舎の惨殺
       
  3. 幕末の木屋町    
       
  4. 古高俊太郎逮捕に至る経過  



 木屋町通を流れる高瀬川は角倉了以とその子与一が作りました。それ以前は鴨川の流路を利用して水運を行っていました。角倉了以
はその流路の一つに堰や堤を築き運河として物資の輸送に活用しました。
 その後、大阪夏の陣には徳川方の武器兵糧の輸送により勝利に貢献したことから更に改修を加え、高瀬川の永代支配権を得、輸送路の大動脈として幕末まで利用されました。
 高瀬川は物資の輸送以外に田畑への農業用水としても活用されました。それは七条以南の流路が大きく迂回していることからも理解できます。
 淀川を上ってきた物資を伏見港で夜のうちに高瀬舟に積替え(15石積、水量により若干変わる)数隻を一団として一艘に付き三、四人の曳子が上流に向かい綱を引っ張り運びました。積荷は米、薪炭、材木、塩等の生活物資が中心でした。下りには長持ちや仏壇等の京の町で作られた各種の製品を運びましたが、し尿も重要な荷物でした。
 しかし、鉄道の発達により大正9年にその役割を終え高瀬舟の運航は廃止されました。

     
幕末時の高瀬川    




 五条から北へ高瀬川の沿岸には多くの舟入(荷の揚げ降ろし場)があり、四条から北には各藩邸が建ち並んでいました。その他に様々な商いの店が軒を並べていたことが、高瀬川沿いに残る町名(樵木町、材木町、紙屋町、米屋町等々)にその面影を宿しています。
 また、商人、旅客、船頭等を相手にした料亭、旅館、貸席とともに、風光明媚な場所柄からか商家の隠居所や保養所なども多く見られました。


高瀬川舟入



 
特に幕末においては、各藩の志士達が密会の場所や隠れ家として利用するのに好都合な街でした。
 古高俊太郎もその一軒である桝屋喜右衛門宅に養子に入り、表向きは商いをしながら、勤皇の志士としての活動を行っていました。
 桝屋喜右衛門(本名湯浅喜右衛門)は丹波国船井郡木住の出身で、当地の物産である薪炭を商いするため木屋町四条上るに店を構えていました。
 四条通から高瀬川沿いに北へ30メートルの角地に店を構え、店の北側は「九の舟入」という荷揚場があって、「桝喜」は高瀬川から西へ本宅一棟、土蔵二棟、借家十八棟、納屋一棟と建物が並んでいました。(石碑の場所は蔵の址といわれています)
   



 「安政の大獄」により師である梅田雲濱が捕縛され、六角獄舎に繋がれたために、救出に奔走しましたが梅田雲濱は江戸に送られ小笠原藩邸で獄死しました。師の遺志を継いで勤皇活動を続けているうちに幕吏に目を付けられることとなりました。しかし、倒幕を目指すには武家の力を必要としたことから、武家と公家の結びつきを図る必要があり、毘沙門堂門跡家士の地位を利用して有栖川宮に接近しました。さらに有栖川宮と武家、特に長州藩を結びつけるために久坂や桂、品川弥次郎等と交誼を結びました。
 桝屋を継いだことで、今までの身分を隠すことに役立ったことと、諸藩の用達であったので各藩の志士との交流を深めることにもなりました。特に、肥後の宮部鼎蔵、播磨の大高又次郎等、諸藩の志士達に宿泊場所を提供したり書簡の交換を含めた交流場所にもなっ
ていました。このように、古高俊太郎は筋の通った勤皇家であり中々の人物でした。




 新撰組を含め幕府探索方は様々な方法で勤皇方を探っていました。新撰組は8・18クーデター以後に長州系の浪人が多く入り込んでいるのをキャッチ、捕縛した者からも情報を得ていました。また、古高捕縛の4日前に宮部鼎蔵の下僕忠蔵も捕縛しています。さらに、桝屋の番頭の裏切りがあったともいわれています。伝わる話は次のとおりです。




 このような様々な情報をもとに新撰組は、6月5日の早朝に武田観柳斉以下数名の隊士が桝屋喜右衛門方を急襲して古高俊太郎を捕縛しました。古高俊太郎を捕縛するとともに、証拠となる書類を押収、具類や会津の印が入った提灯類もあったといいます。
 これは後になって判明したことですが、新撰組が踏み込んだ時に女中の「とめ」が当時八歳の樟之助(湯浅五郎兵衛の次男、俊太郎の養子、後の章)を連れ「書簡や書類」を懐中に納め脱出したといいます。(後年、70通余りが発見されている)。踏み込みが突然であった為に全ての書類を持ち出すことや、処分することは不可能に近く、押収された書類の中に過激な内容を含んだものがあっと思われます。

 
古高俊太郎顕彰碑



 桝屋に長年勤めていた番頭忠七(利助)は主人が亡くなったので自分が采配を振れるものと思っていましたが、俊太郎が養子として後釜に入ってこられたため、当てが外れました。
 忠七は資金援助と出入りをゆるされ独立していましたが、諦めきれず自分の娘を俊太郎に娶わせようとしました。しかし、撥ね付けられたので、日頃の俊太郎の様子を新撰組に訴え出たといいます。
 また、別の話では忠七が他の店の番頭を使い主人(俊太郎)の行動(年頃であるのに嫁も貰わず、商売に不熱心で、不逞な浪人者が出入りしている様子など)を訴え出たともいわれています。
   
 
 
 

京都史跡ガイドボランティア協会提供

 
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