~長州VS会津・薩摩、激戦の地を当時の記録で現場検証~
幕末の元治元年(1864)7月19日未明、大軍を率いて上洛した長州藩は京都御所(禁門)に向けて総攻撃を開始した。禁門の変である。御所を守るのは、会津藩と薩摩藩を中心とする幕府軍。激しい戦闘の結果、長州藩は撃退され、長州藩の尊王攘夷派は壊滅した。禁門の変の激戦地として知られる蛤御門には、現在も多くの観光客が訪れる。ただし当時、蛤御門があったのは今の場所ではない。蛤御門を攻める長州藩。守っていたのは会津藩。ドラマでは長州兵は門の正面から攻めてくるが、実際は蛤御門を守る会津兵に、内側から攻めかかっていた。長州兵は、どこから入ったのか?今回は、会津藩の公式記録を元に幕末の地図を片手に、禁門の変の戦いをたどる。山本覚馬は、大砲隊を指揮して大殊勲。西郷隆盛率いる薩摩兵は強かった。久坂玄瑞は、友に夢を託して自刃。勇士たちの戦いの跡を訪ねる。