--------目次--------
◆江戸初期・元禄のころ
  ◆江戸の中ころ・遊里に
  ◆幕末に焼失・再興
  ◆お茶屋・一力
  ◆新撰組と祇園町
  ◆町会所
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 祇園町は江戸初期の元禄の頃に開発されました。当時は縄手通から西は鴨川の河原が広がり、四条大橋は大雨が降れば度々流され、橋が有ったり無かったりで、板の橋が懸かり河原の東に芝居小屋が2軒並んでいました。
 それにそって拾数軒の茶屋が立ち始め、祇園感神院(現在の八坂神社)の門前町でもあり、参詣人目あての水茶屋も軒をならべるようになりました。

 江戸時代の中頃には新地(島原の出店)として町だてされ、水茶屋の商売とむすびついて遊女たちが多く、遊里として公認の遊廓島原をも圧倒するほどに発展しました。江戸時代後期には幾度か幕府によって遊女稼ぎをとがめられたりしましたが幕末には祇園花街は大変隆盛になりました。
 八坂神社西門前の四条通をはさんで、北は新橋通から、南は建仁寺境まで西は大和大路から東は東大路通までで、南側は四条通に面する部分が中心の地域を祇園といいました。

 元治2年3月36日(4月7日から慶応)末吉町通縄手東入る付近から出火して、四条通を東へ南座、北座から一力まで、北は新門前辺りまで焼き尽くしました。然し急速に復興し慶応3年には芸者・舞妓等千人を越えていたといいます。
 明治以降は、甲部と乙部の区別を設け祇園お茶屋組合の組織のもとで営業するようになって以後、現在に至っています。

 

祇園一力(現在)

 祇園でお茶屋として有名な一力は、家名を万屋、また万春楼といいます。万の字を一と力とに分けて一力と通称しました。寛延元年(1748)上演の浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』七段目に、大石内蔵助遊興の場を祇園一力と設定したため著名となりました。庭内には大石150回忌に俳諧師桜井梅室が碑を建て、「蝶鳥の中にもひそむ巌かな」の頌をきざみました。
 しかし大石が遊んだとされる元禄15年(1702)頃は、まだ花街はできていませんでした。このあたりが賑うのは正徳3年(1713)以後のことです。一力の玄関はもとは四条通りに面していましたが、大正4年(1915)に市電が開通し道路が拡幅されたため、現在の花見小路東側に移されました。

 新撰組も遊興のために度々訪れていたといいます。新撰組関係の資料によりますと文久3年10月10日に近藤勇が、各藩の京都留守居役による諸藩斡旋方会議に出席し、持論の公武合体論を行った記録が見られます。

 町会所とは、京都の町々に設けられた寄り合の施設です。戦国時代に始まったもので、毎月家持ちの町人たちが寄り合い、京都所司代から出された法令や町式目(町内で取り決めた規則)を読みあって伝達し、町内の問題を話し合い、さらに饗宴をもって親睦をはかる場所でもありました。その際、各自が膳を持ち寄ったのでこれを町汁ともいいました。現在でも町会所は京都の鉾町に多数残っています。会所には他所者・博突・遊女・家来衆の宿泊を禁止しました。そして町で雇った町用人に管理させましたが、会所守が髪結を業としたものが多かったことから、階下が髪結床、階上が会所としていたところが多かったそうです。
 祇園会所は花街を取り仕切る祇園執行所の跡に設けられ、会所の跡に明治2年弥栄尋常小学校が設置され、現在の弥栄中学校となりました。新撰組が集合した祇園会所は、この辺りにあったと想像されますが、現在ではその存在を示す史跡は何も残っていません。

 
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