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祇園町は江戸初期の元禄の頃に開発されました。当時は縄手通から西は鴨川の河原が広がり、四条大橋は大雨が降れば度々流され、橋が有ったり無かったりで、板の橋が懸かり河原の東に芝居小屋が2軒並んでいました。
江戸時代の中頃には新地(島原の出店)として町だてされ、水茶屋の商売とむすびついて遊女たちが多く、遊里として公認の遊廓島原をも圧倒するほどに発展しました。江戸時代後期には幾度か幕府によって遊女稼ぎをとがめられたりしましたが幕末には祇園花街は大変隆盛になりました。
元治2年3月36日(4月7日から慶応)末吉町通縄手東入る付近から出火して、四条通を東へ南座、北座から一力まで、北は新門前辺りまで焼き尽くしました。然し急速に復興し慶応3年には芸者・舞妓等千人を越えていたといいます。
しかし大石が遊んだとされる元禄15年(1702)頃は、まだ花街はできていませんでした。このあたりが賑うのは正徳3年(1713)以後のことです。一力の玄関はもとは四条通りに面していましたが、大正4年(1915)に市電が開通し道路が拡幅されたため、現在の花見小路東側に移されました。
新撰組も遊興のために度々訪れていたといいます。新撰組関係の資料によりますと文久3年10月10日に近藤勇が、各藩の京都留守居役による諸藩斡旋方会議に出席し、持論の公武合体論を行った記録が見られます。
町会所とは、京都の町々に設けられた寄り合の施設です。戦国時代に始まったもので、毎月家持ちの町人たちが寄り合い、京都所司代から出された法令や町式目(町内で取り決めた規則)を読みあって伝達し、町内の問題を話し合い、さらに饗宴をもって親睦をはかる場所でもありました。その際、各自が膳を持ち寄ったのでこれを町汁ともいいました。現在でも町会所は京都の鉾町に多数残っています。会所には他所者・博突・遊女・家来衆の宿泊を禁止しました。そして町で雇った町用人に管理させましたが、会所守が髪結を業としたものが多かったことから、階下が髪結床、階上が会所としていたところが多かったそうです。
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