「菓子のみに生きる」伏見城下の老舗
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聚楽第の大茶会にも使われた伏見羊羹
寛正二(一四六一)年、初代・岡本善右衛門は、伏見の地に「鶴屋」の屋号で饅頭処を開いた。代々の当主は、菓子の味や品質の改良に努めたが、中でも天正一七(一五八九)年に発売した蒸羊羹の「伏見羊羹」は、良質の澱粉や砂糖を使い、紅を混ぜた風雅な名品であったという。豊臣秀吉からも絶賛され、聚楽第において諸侯を招いて催された大茶会の引出物として供せられたことから、伏見羊羹は世に知られる存在となった。 その後、秀吉が伏見城を築城したことにより、伏見は大いに発展し、茶道の興隆や南蛮文化の流入など、京の街では新しい文化も芽吹いた。そうした状況下、千利休の助言や新しい材料の導入により、伏見羊羹にさらなる改良が加えられ、今日に伝わる「煉羊羹」が完成。慶長四(一五九九)年の発売以後、煉羊羹は鶴屋を代表する銘菓として評判が高まり、その後の和菓子界に大きな影響を与えてきたといえる。 江戸時代に入り、鶴屋は、和歌山城主となった徳川頼宣候に召し抱えられるかたちで和歌山に移り、紀州家御用御菓子司として代を重ねる一方、創業の地である伏見には総本家を置き、お菓子の普及に務めた。また、元禄二(一六八九)年、五代将軍綱吉の息女・鶴姫が紀州家へ輿入れの折に、同名をはばかって鶴屋の屋号を返上。代わりに徳川家ゆかりの地である駿河にあやかって「駿河屋」の名を授かった。改称した後も、同店は数々の銘菓を世に送り出し、和菓子の世界に大きな功績を刻み続けてきたといえよう。 |
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常に京都を原点とした菓子づくりを心掛ける |
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