煎豆業一筋に百年余を生き抜く |
|||||||||
縁起ものとしても人気の高い 夷川五色豆 明治十七年(一八八四)に煎豆業を創業し、砂糖豆や塩豆、雑穀を販売しはじめた。その初代・角田政吉が明治十七年、京都特産のエンドウ豆を選んで炒って、当時は白色しかなかったものに四色を加え、五色の衣を着せたものを夷川五色豆として売り出すようになる。明治三十四年に政吉の実弟の政次郎が二代目を継ぎ、屋号を豆政と改称するようになった。そして、明治四十年頃に五色豆を発明し、意匠考案の新容器に入れて京都駅で発売し、京名物として全国にも知られるようになった。 元来、この五色は青赤黄白黒で、青は木、赤は火、黄は土、白は金、黒は水を表し、大地を象徴するものといわれている。ただし、黒は縁起がよくないということで、紫に代えられた。現在の五色豆に肉桂を使った褐色のものがあるが、これも紫の代わりである。ということからもわかるように、この五色とはいわば縁起ものであり、平安朝以来の伝統な瑞色である。つまり不祥を除き、幸福を祈るときは必ずこの五色を用い、たとえば正月の卯杖の五色の糸、三月の雛の節句のくす玉の糸と菱餅、五月の端午の節句の吹き流し、七月の七夕の笹に飾る糸と紙、そのすべてがこの五色になっている。 加えて、豆そのもにも古来からめでたいものだった。五穀のひとつであり、味噌や醤油、豆腐などの加工品の原材料であり、日本人の食生活には欠かせないものであると同時に、節句の饗膳には不可欠の食材となり、節分には邪気災厄を払うために豆まきが行われた。仲秋の後の月を豆名月と称して、豆を供えて実りの秋を感謝する風習も残っている。 |
|||||||||
近代経営に移行しても、基本は昔と同じ 先代の父はよく「隣の木に移るな」と申しておりました。つまり、本業以外のことはするな、わからんことはするな、ということです。これをいわば家訓として、煎豆業一筋、五色豆一筋に商ってまいりました。しかし、そのなかで時代には対応しなければなりませんでした。豆そのものも、内地産の豆を種として北海道に移植して生産するようになり、外国産の豆の比重も増えています。それもオランダ、イギリス、ニュージーランド、カナダと多方面にわたっています。しかし、他方では、砂糖自体がよくなってきています。したがって、戦後すぐにくらべると砂糖の量も少なくして、甘みを抑えるようにしています。 昭和三十二年に法人化し、近代経営に移行しましたが、つくる工程は大量生産が可能になったとしても、基本は昔と同じです。やはり仕上げは手作業に頼らざるを得ないのです。ですから、いまでも少量多品種を心がけています。そして、けっして安売りはいたしません。それが老舗としての誇りなのです。京都ブランドといい、千年の伝統といっても、しれだけのものをつくりませんと通りません。京都の名を付けただけでは、駄目なのです。その意味では、伝統をしっかりと守るとともに、つねにベンチャーでなければならいと考えております。 |
|||||||||
商品のご紹介 「月しろ」 古来、月には、さまざまな風雅、ロマンが託されてきました。私達の夢を、かきたてて、やまない、ときめきに満ちていました。この月ごころを味と形に映した銘菓「月しろ」は、良質な北海道小豆、国産白小豆をまろやかな琥珀寒天でつつみました。まろやかな風味をゆっくりお楽しみください。 「夷川五色豆」 夷川五色豆は、明治の中頃に豆政の初代が考案したものです。五色の衣をまとった素材であっさりした風味、古都の趣を是非ご賞味ください。 「10種類の詰合せ徳用セット」 ご進物の定番、京ごのみ豆づくしがデザイン新たに一層のボリュームアップで新登場しました。こだわりの豆菓子の数々をお楽しみください。 |
|||||||||
|
|||||||||
|
-
京都のグルメ「食べる」
-
京都のグルメ「呑む」