太閣・秀吉が命名した珠玉の羽二重餅 長五郎餅本舗 |
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天神さんの縁日には出店を出して・・・ 戦国の世も終幕に向かいつつあった天正年間。当時北野天満宮が鎮座するこの一帯は、緑濃く生い茂った森林に囲まれ、清流がせせらぎ、初春の梅といい、初夏の新緑といい、秋の紅葉といい、洛中きっての景勝地でもあり、多くの参詣客で賑わった。そこでよしず張りに床几を並べて参詣客をもてなしながら、茶菓子を商っていたのが河内屋長五郎。当時は菓子といっても味も見た目も素朴なものがほとんどだったが、彼は長年の研鑚のすえに、餡をくるんだ羽二重餅を編み出した。 ところで、天正十五年(一五八七)の秋、関白太政大臣となって九州平定を終えた豊臣秀吉は、公家や大名から民衆までも動員した北野大茶会を催した。その際に長五郎がこの餅を献上したところ、秀吉にたいそう気に入られ、「以後は長五郎餅と名乗るべし」と言われたという。これが長五郎餅本舗の由来となっている。そして、その上品で典雅な味わいが評判を呼び、やがて宮中御用達となり、とくに小松宮家や山階宮家の愛願をうけてきた。 さらに、長五郎餅は北野名物として一般庶民にも愛され、その賑わいぶりは「北野天満宮参詣賑恵図」という当時の双六にも紹介されているほど。明治維新に際しては諸国の大名や家臣が京詰めとなり、その風味と名声が全国各地に伝わることとなった。そして、二一代目の当代にいたるまで、初代が考案した風合いを守りながらも、原料の餅米や小豆を吟味し、製法にも改良を重ねて、北野名物の名を維持し続けている。ところで、現在も毎月二五日の北野天満宮の縁日には境内の東門内に出店を出している。それほどに北野の天神さんとの関わりは、昔も今も深いといえる。 |
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太閤さんが愛した味そのままに |
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